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求め行く者  作者: 祓川雄次


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33/48

1998年8月21日(金) (4)

(四)

 会場の照明が落ちた。すぐさま暗く佇んでいたリングへと照明があたり、そこだけが浮かび上がっているように見えた。そこにはマイクを持ったリングアナウンサー一人が中央に、試合を裁く、であろうレフリーがコーナーの方へと存在していた。三人の審判たちもリングを覆うようにして、三方向から用意された席でリングを見ていた。

 まばらな観客もそれに伴い、試合を観戦する準備をはじめた。

 いよいよという雰囲気が会場に覆う。四階の踊り場に設けられた音の出ないテレビモニターの前で、碑は身体を動かしながら浮かび上がったリングを見守っていた。

 高らかにゴングが数回、打ち鳴らされた。

「これより本日の第一試合、ライトフライ級四回戦を行います」

 前座の選手に入場曲のような花道は用意されてはいなかった。しかしそんな物が存在しなくても、ボクサーとしての決意と誇りを持った二人の男たちには関係がなかった。ただ自分たちの戦いのリングへと上がるだけであった。四角い空間に入ってしまえば、もはや逃げることは許されない。戦いの火ぶたが切って落とされ、それが終結するまでは……。

「赤コーナー、湊サカワキジム所属、加奈月啓太郎」

 男にしては少し甲高いリングアナウンサーの声が、会場内に木霊した。その声に答えるようにここで負けたら引退勧告を受けるかもしれない、ダフ屋にチケットを売った男は試合前とは思えないことを考えていた。だがそんな崖っぷちの気持ちをこの一戦に、悔いの残らないようにかけるだけだと吹っ切った。

 加奈月に対する拍手はまばらというどころか、少なさに同情するように鳴らされた程度のものであった。

「青コーナー、ヨコザキジム所属、小巻龍二」

 対する小巻は友人が多いのか、応援団たちが大きな拍手と声援を送る。その声に後押しされるように、リング中央で小巻は大きなガッツポーズをしてみせた。

 二人はレフリーにより、一度リング中央に呼ばれ、試合の注意などを受けてから両コーナーへと分かれた。

「いいか、兎に角攻めるんだぞ」

 赤コーナーではマウスピースを装着させながらセコンドが言った。その声に対して加奈月は頷いた。

「カーン」

 乾いたゴングの音が静かな、観客のまばらな会場に響いた。

 二人の選手はリング中央へと歩み寄り、ちょこんと挨拶のようにグローブを合わせた。お決まりの行為、ゴングではなく、そこからが試合のはじまりであった。

 身長は小巻の方が小さいように見えた。しかし加奈月の構えがクラウチングスタイルで低いせいか、あまりそれを感じることはなかった。

 加奈月はベタ足でジリジリと歩みながら距離を詰めるために歩を進めた。それに対抗するように、距離を保とうとする小巻は、左ジャブを出し、フットワークを使いはじめた。

 その頃であろうか、カルロス・ゴンザレスは後楽園ホールへと入ってきた。メインイベント、つまり自らの出場まで二時間以上の時間がある。だがその時間の余裕は、神経を集中させる作業などに費やされていくのである。身体を動かし、リングへと上がった時に、すぐに心拍数を上げて戦闘態勢へと入れる準備も必要であった。

 そのゴンザレスが通り抜けていく五階では、第一試合の攻防に会場は本当に軽く、小巻の応援団のみというくらいの声援しか響かなかった。

 動きの遅い加奈月に対して、小巻は左ジャブを何発も当てていく。加奈月がその勢いに押されて体勢を崩しそうになると、小巻は容赦なく後続打を打ち込んだ。

 デビュー戦でもプロはプロである。小巻の動きは良かった。だが加奈月も打たれてばかりではなかった。無理やり小巻の懐に入り込み、強くは見えないがボディーブローを打ち付けていく。

 そんなパンチではびくともしない。小巻は自らが作り上げてきた肉体に自信を持っていた。強くないボディーを貰おうとも、それに臆せずすぐにストレート系のパンチで加奈月を再び引き離していった。

 そんな中、一ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされた。

 ポイントを取ったと思われる小巻の応援団はコーナーへと戻る彼に対して、大きな拍手と声援を送った。小巻はそれを耳に入れると、自らの気持ちを高めた。

 実際に手を合わせた感触として、赤コーナーの加奈月は強いとは思えなかった。パンチ力も大したことはない。懐に数回入られたが、それほどパンチを貰った記憶もない。これならば勝てる。そう思いながらもセコンドからの喝に気を抜けないと、今一度身を引き締めた。

 一方赤コーナーでは、何とか一ラウンドを持ったという感じのある加奈月が息を切らさずに座っていた。小巻の動きが早く、捕まえることは大変かもしれない。そんな事を思いながらも、距離を詰めて相手を疲れさせ、自らのペースへと引き込むことしかできないと、それしかない自らの能力を理解していた。

 二ラウンド目に入る頃、国松は水道橋の改札を通り抜けた。

 この先には彼に取ってプロとして三〇戦目のリングが用意されていた。そしてそれは二度目の世界タイトルマッチというものであった。

 少し雨が落ちてきている。夏の気温と湿度のためか、空が重く感じられた。そんな中、今までのボクシング人生を国松は考えていた。

 たいして長かったとは感じてはいない。むしろ一〇代の横着を繰り返していた頃とは比べ物にならないくらいに早かった。

 福田に連れられて行った、初めて見たボクシングの世界。その中で自らの居場所を作ってくれた源会長。全ての人に感謝をしている。そして出会ったばかりでありながら、自らに人とのふれあいというものを気付かせてくれた雪藤久恵という人物も、そこには含まれていた。

 後楽園ホールへと続く橋を渡りながら、いつになく淀んでいるように見える神田川を見て、アスファルトの上を歩いた。一歩一歩と、自らの居るべき空間へと向かってであった。

 二ラウンド目に入り、完全に小巻はペースを握っていた。加奈月の動きは激しくはなるが、小巻はそれを捌き切っていた。そして何度と無く左ジャブ、右ストレートを叩き込んでいく。

 だが加奈月はそれでも遅い足で前に出続けた。小巻の手数が増えればいつか疲れるはず。それを待つためにも頑張らなければならなかった。勿論打たれて痛みを感じていない訳ではない。どのようなボクサーでも痛みは感じるのである。しかし緊張感や集中力などから、立ち向かえないような痛みではない。もしも痛みを感じるとしたら、恐怖を覚えた時か、勝機という物を見失った時であろう。

 どこかで小巻に隙ができる。その時にパンチを叩き込めるようにイメージをしながら前に出る。そんな思いで詰めた時に、小巻が少しだけ嫌がる表情を見せた。しつこいという感じであったのだろう。

 ここぞとばかりに加奈月は懐へと入り込んだ。しかし小巻は左ジャブを強く出して再び加奈月を離していく。だが一ラウンド目に比べると確実に距離が詰まることが多くなってきたことは事実であった。

 国松はエレベーターを降りた。関係者入り口から無言のまま、小さな歓声の沸くリングを横目に見ることもなく、四階へ続く通路へと姿を消した。

 今日は四回戦から客が結構入っているように思えた。雰囲気だけでそんな事を思った。自らのデビュー戦の時には、それほどの客は入っていなかった。全ての試合が四回戦であったから、ほぼ選手の身内という事もあったのかもしれない。しかし今日は世界タイトルマッチだから、多く入っているように思えたのだろう。

 国松が四階へと降りる頃であった。

 ロープに詰まった小巻が渾身の力で左フックを放った。それが加奈月の顎を捕らえ、力を奪った。膝が折れ、キャンバスへと着いた。ダウンであった。

 小巻はレフリーに即されニュートラルコーナーへと向かった。その際に応援団に向かいガッツポーズを示した。それに応えるように応援団の大きな歓声が起こった。

 加奈月は立ちたかった。立って戦いたかった。ここで負けたら四連敗で、引退勧告を受けることになる。自らのボクシング人生をここで終わりにしたくはなかった。

 そう思いながらも、虚ろな加奈月の目を確認したレフリーは、続行を許さなかった。両腕がレフリーの頭上で交錯され、試合終了の合図を、リングを見る全ての視線に知らしめた。

 それを見て小巻は大きくジャンプをしてリング上を駆け回った。表情は自らのデビュー戦の不安を吹き飛ばし、笑顔を浮かべさせた。加奈月のパンチは大した力ではないと思っていた小巻であるが、その顔には幾つかの赤い打撃痕が残っていた。

 今日の興行のリングではじめての勝敗が決した。あと数組の試合が行われたのちに、世界ライト級の決着も出ることになる。

 未だ会場へと足を運んでいない観客たちも、その決着を大いに期待していた。


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