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求め行く者  作者: 祓川雄次


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3/23

1998年8月15日(土) (2)

(二)

 小降りの雨が降った昼頃、源ボクシングジムの一階には馴染みの記者が数名集まっていた。

 二階建ての建物は建設以来、一度も壁の塗替えをした事がないのか、それに伴うように古臭いイメージを漂わせていた。一階、二階ともにリングが設置されているが、それほど大きな物ではく、試合用と比べると一回りは小さかった。ただ両階の面積を考えれば、ボクシングジムとしては広いほうかもしれなかった。ただ記者たちがいるせいか、一階は手狭に感じられた。

 汗とワセリンの匂いは、部外者がイメージするほどではないのだろうが、そんな中に男たちの残していった【夢】の残骸たちがあちらこちらに散乱している。

 昼間のジムは、練習生や主婦などのダイエット目的で練習に来ている人たちも多々存在していた。しかしそれは二階であり、一階には数名のプロが動き回っているだけであった。

 六四歳になる会長の源忍は、昔気質の性格もあり、女をジムに入れる気はなかったが、トレーナーとの話し合いの結果、プロ以外の人たちも受け入れることにした。そのため、主婦などの会員は多かった。基本的には二階が一般の人たち向けになっているので、土曜日の今日は、活気に溢れていた。

 源の顔は、五〇代に見えるくらいに若々しかった。本人に言わせると、若い人たちの気をいつも近くに感じているからと口にするが、それだけで若さを保てるものではないのだろう。練習生やプロたちと一緒に動いているということも、若さを保つための一役を買っているように思える。

 四〇年前、源は現役選手として活躍していた。その顔は歴戦の勇と言うには綺麗な顔をしていた。戦績も七二戦と現在の選手では考えられない回数の試合を経験していた。

 当時のボクサーとしては珍しく足を使ったスタイルで、前進をして殴りあうボクサーが多い中では、まれに罵声を浴びることもあったという。しかしそのフットワークは未だに素人の域を超えていた。そのためか、入会したばかりの練習生たちには自らのフットワークを見せて教えたりするほどである。これも若さの秘訣なのであろう。

 そのかわりパンチ力というものは無かった。七二戦の内、勝ち星は五三を記録しているが、KOはその半分どころか、更にその半分にも満たない六回である。ただ結果が全ての世界と言ってしまえば、勝ち星が多ければKOは二の次になるのであろう。

 敗戦は七回とKOの数よりも一つ多い。残り七戦は引き分けと、数としては多いだろう。それだけ決定力がなかったのか、実力差を埋めて引き分けに繋げる力があったのか、そのどちらかであるかは今ではわからない。

 そんな会長がジムを開いたのは四四歳の時であった。今から丁度二〇年という歳月を遡る。その二〇周年に加えて、もしもジムから世界チャンピオンが誕生することになれば、輪をかけて嬉しさが増すことは言うまでもなかった。

「もうそろそろ国松は来ますかね」

 トレーナーの福田慎二は、源がリングを見ながら感傷的になっているところへと問いかけた。公開練習をする松崎国松が顔を出しても良い時間であった。

「そうだな、もう姿を見せるだろう。だいぶ仕上がりはいいみたいだし、ちょっと期待してしまうよ」

 源は更に感傷的になるように言った。

「そうですね。前回は後少しでしたから、今回はスッキリと決めてもらいたいものです」

 福田は前回の世界戦を思い出すように言った。本当にあと少しであった。あと一回のダウンで良かったのだから、手の平から勝利が零れ落ちたという気持ちであった。

「一〇年前にお前が拾ってきた半端者がこんな風になるなんて誰が想像したかな」

 源の言葉に、福田は思わず頷いて答えた。

「私も想像しませんでしたよ。気まぐれだったんでしょうね。

 でもあいつはここまで登りつめてくれましたからね。

 前回の事もあるし余計に気合は入っているでしょう」

 そんな事を言って、福田は昔の事を思い出していた。リングを見て感傷的になっている源に、まだこれからと言おうと思っていたのに、自分が逆にその感情を受け入れてしまいそうになっていた。

 

 当時の国松は定職にもつかずに、昼夜かまわずに、街で喧嘩と横着ばかりを繰り返していた。そのまま行っていたら、きっとどこかで野垂れ死んでいてもおかしくはない状態であった。

 ある日の事、国松が街でいつも通り喧嘩を終えた時であった。

その光景を見ている一人の男が、国松の視野に入った。それが福田であった。

「何を見ているんだよ」

 その男に向かい、国松は難癖をつけて、未だに収まり切らない熱い血をたぎらせたまま殴りかかって行った。

 この時の福田は二九歳。プロボクサーという職業を引退して、まだ数ヶ月と間もない頃であった。そんな事もあり、身体は現役時代とそれほど変わらず、錆び付いていない状態であった。

 福田のプロ最終戦績は、二五戦二二勝一六KO三敗。元日本ライト級のチャンピオンであり、世界タイトルマッチにも一度挑戦したことがあったほどの実力者であった。

 そんな戦績の相手に、街のゴロツキが喧嘩を売ったとしても、到底勝てるはずがなかった。

 あっさりと大振りの喧嘩パンチを交わされ、平手を嫌という程顔面へと叩きつけられた。それも格差を見せつけられるように、相手を傷つけない程度の軽いものである。

「てめえ、何者だ」

 叩かれ、疲れ果てたのちに、地面に倒れこみながらも国松の威勢は未だに良かった。

「ただの通りすがりで、お前に絡まれただけの男だよ」

 涼しい顔で福田は言った。未だに語気だけは強い国松は言い返した。

「ふざけるなよ。そんな訳がないだろう」

「そんなもんさ…。それにして何度叩いても向かってくる根性は、街のチンピラにしておくのは勿体無いな。パンチの筋も悪くないし…。

 もしも気が向いたらこんな場所で喧嘩をしてないで、男が誇りをかけて闘う場所へこないか」

 福田は、二発ほど危険なパンチがあった事を思い出して言った。駆け出しの四回戦と呼ばれるボクサーならば、そのパンチをもらっていたかもしれない。そんな事を想像させた。

「男の誇りって、そんな場所があるのかよ」

 国松に取っては、喧嘩でも安いプライドであるが誇りを感じていた。しかしながら、それをコテンパに否定されてしまったのである。もしもそのような場所があるのならば、この相手を倒せるのならば行ってみたかった。

「ああ、良かったら一度顔でも出して見ろよ」

 福田はそれだけを言うと一枚の名刺を取り出して、地に伏す国松の前に置いた。

「源ボクシングジム」

 書かれているジムの名前の他には、トレーナーという文字がそこにはあった。ボクサーでもなく、トレーナー程度にこの有様なのか。国松は思ったが、ここにいけば福田に復讐ができると考えていた。

「そうだ、気が向いたら来てみるんだな」

 それだけを言うと福田は悠然と背を向けて歩き出した。

「行ってやるよ。その代わりもう一度お前と勝負させろよ」

 大声で背中に叫ぶ国松の言葉に、福田は振り返って言葉を発した。

「わかった、その時には相手をしてやるよ」

 そして笑顔で去っていった。

 こんな言葉につられ、国松は翌日にジムを訪れた。腸が煮えくり返る程の怒りを込めてジムの門を叩いた。

「まだ準備中だよ」

 そこに出てきた源が言う。国松は拍子抜けするように源を見て

「福田というやつはいるか」

 と威勢を取り戻すように言った。ジムの二階を掃除していた福田はその声を聞いて階下へと降りてきた。

「会長、さっき言っていた奴ですよ。こんなに早く来るとは思わなかったですけどね」

 福田の笑顔を見るなり、国松の腹には昨日の怒りがこみ上げてきていた。

「もう一度勝負させろよ」

 国松はいきり立って福田に近づいていった。

「もうすぐジムが始まる時間だというのに、全くせっかちな奴だな」

 今度は源が呟く。それでも国松は視線を動かさずに、福田を睨み続けた。

「まあいい、やらせてやるが福田は掃除中だから少しだけ待っていろ」

 源は呆れたように言うと、国松をジムの中へと招き入れた。

 福田が掃除をしている間に、ちらほらと練習生たちが集まり始めていた。しかし国松はそんな事をおかまいもなく、彼らを視線に入れることもなかった。飽くまでも福田に対してだけ、怒りという感情が先行していた。

「さあ、準備ができたからやってみるか」

 福田はバンデージを巻いてグローブを着けた。国松は源から渡された軍手を着け、グローブをはめた。誰にでも合うゴム製のマウスピースを口に入れられ、ヘッドギアを着けられる。国松としてはどうも気に入らない物を付けられたという感覚があるが、福田と戦う条件とされたために、それに従うしかなかった。

 練習生の数人はリングを見ている。しかし興味があるのは、現役を引退したと言っても、まだまだ動きは世界ランカー並みの福田に対してだけであった。

「何だかしっくりこないな」

 やはり頭に被せられたヘッドギアが気に入らないのか国松は文句を言うが、源はあっさりと言葉を返した。

「危ないから付けておけ、とりあえずボクシングのルールであればやらせてやるから」

「外したら」

「やらせん」

 福田と勝負ができないのであれば、ここにきた意味がない。国松は仕方なく従い、はじめてリングの中へと入った。

 そしてマットの感触を確かめた。アスファルトとは異なり、少しだけ柔らかく感じる。そして外界と区切られたロープは、街の喧嘩では感じた事のない圧迫感を覚えさせる。四方を逃げられないように固められた、昔の決闘とはこんなものだったのかもしれない。国松はそれを緊張と共に楽しもうとしていた。

 福田はTシャツ姿でグローブをはめる。グローブもハンデをつけているのか、国松の一四オンスに対して一六オンスの物をつけている。ちなみに一オンスはグラムになおすと二八点二八グラムで、一四オンスは三九六グラム、一六オンスは四五二グラムである。どちらも五〇〇ミリリットルのペットボトルよりも軽い、と思う人もいるかもしれないが、それを三分間、しかもパンチを出し、ガードをすることを考えれば、素人にはかなり厳しい物であるが、経験をしなければ誰もがわからない物であろう。

「あいつはこれを着けないのか」

 国松は源に対して、福田がヘッドギアをつけていない事を指摘する。

「そのくらいのハンデがあっても構わないだろう」

 笑いながら言葉を返す源に、少し苛立ちを覚えながら、国松はそれでもいいならと無理やり納得した。あの顔に一発、思い切りパンチを入れてやる。そう考え、拳を思い切り握り締めた。

 ゴングが打ち鳴らされ、国松は福田に向かって突っ込んで行く。福田は昨日と同じように国松のパンチを軽く交わす。

 そんな展開が続く中、グローブがこれほど重たい物なのかと国松が感じ始めたのは一分を過ぎた頃であった。何も拳に着けない状態の喧嘩とは大違いである。

 福田はその間、パンチを交わすのみで自らの拳を振るうことはなかった。国松のグローブが下がりはじめた頃に、一回だけ突いたジャブが国松の顔面を捕らえた。

 昨日の平手とは異なる衝撃が国松を襲った。喧嘩では味わったことのない、気が付いたら当たっているパンチに国松は何もできなくなった。それによって悔しさは増大していく。それに気圧されるように重たくなったグローブを国松は振るった。

 福田はそれを軽くいなし、再びジャブを当てる。首が捻れるような衝撃が国松を襲う。それを必死で耐えて、パンチを出す。しかしそこに福田の姿はもうなかった。

 一ラウンドを終えて、国松は血の匂いを感じた。その原因は自らの鼻血であった。それを悔しそうにTシャツの袖で拭う。

 二ラウンド目には更にグローブの重さを実感した。それにより、どんどんとパンチを打つ力はなくなっていく。変わるように福田のジャブが幾度となく国松を捉えるが、倒れることだけは拒否した。どこかで一発でもいいから福田にパンチを当てたい。そんな思いを込めて、思い切り右拳を繰り出した時であった。

 当たるか…一瞬国松がそう思った時であった。リングを見守っている練習生たちからも歓声が漏れる。

その瞬間、今までにない力強いパンチが飛んできた。

一瞬で国松の目の前が暗くなっていった。思わず出てしまったという表情を浮かべた福田の右カウンターであった。

 国松は何が起きたかも解らずにキャンバスへと倒れた。

「すまん、思わず」

 福田は倒れた国松へと近づいた。反撃をしたい気持ちはあるが、国松の身体はそれ以上気持ちについていかなかった。

 しばらくジムの端で休んでいるうちに、練習生たちの存在がやっと視線に入った。

 何とも言えない衝動が胸の中へと走った。過去にどこかで見た「本物」と呼べる男たちの背中が、そこにあるように思えて仕方がなかった。それと共に嫌悪を少しだけ思い出した。

「ここに通ったら、あんな風になれるのか」

 起き上がった国松は、隣に座っている源に対して思わず声をかけた。

「さあ、なれるかどうかはお前次第だよ。だが本気でやるのならば、なれる可能性はあるかもしれないな」

 その言葉に背中を後押しされ、国松はジムへと足を運ぶようになった。

 はじめの頃は福田を何とかしたいという気持ちが少しはあったが、それが叶わぬように感じられるまで、一週間とかからなかった。

 それから一年後、プロテストに合格した。

 横着ばかりで人生に何も見出せなかった自分が、変わりはじめ、福田が出会った時に言っていたように、国松は心の中に誇れるものができたような気がしていた。


「ちわっす」

 ジムの扉が開き、ありきたりな体育会系の声がジムの中へと響き渡った。

「来たか、スパーリングパートナーの準備はできているからな」

 源はいつものように、明らかに走って来たであろうトレーナー姿でリュックサックを背負っている国松に声をかけた。

「わかりました」

 国松は馴染みの記者たちを相手にもせずに源へと答えると、ロッカールームへと入った。

すぐにリュックからバンデージを出して拳へと巻き付けていく。長い布が拳を覆う毎に戦闘態勢を作り出していく。それと共に国松の気持ちも、気負う事なく高ぶっていく。それが終わるとマウスピースを持って水道で洗うと、口へと入れた。

 ロッカーを出て国松は福田の元へと向かった。そして準備はもうできていると告げた。

「相変わらずだな」

「無駄な時間は必要ないですからね」

 そんな言葉を交わすと、国松は自らのグローブとヘッッドギアが置かれている棚へと歩み、個々の戦闘着を装着していく。

「じゃあスパーリングを始めるぞ、準備はいいか」

 福田は数名のスパーリングパートナーたちへと声をかける。

 全員が平気だと答え、個々に準備を始める。

 福田は国松が準備を終えてリングへと上がると、一人目のパートナーをリングへと上げて、ゴングを鳴らした。

「スーパー・ライト級の日本ランカーの前園か」

 源が国松の対角線にいる選手を見て呟いた。

 前園は走って練習に来る国松を知っているので、準備運動をしていない国松相手でもはじめから全力でいく必要があると、立ち上がりから手数を多く出して前進を進める。

 国松よりも自らが一階級上とは言え、世界ランカーとは格の違いがあることは理解していた。だが体格の差を活かして国松に圧力をかけ、前に詰めて行こう考えていた。

 そのパンチをステップワークで交わし、リングの中を颯爽と国松は廻る。

 長年国松を見ている記者たちは、試合の時とは異なり、他の技術がしっかりと備わっている彼のことは知っていた。だが前園は国松とのスパーリングがはじめてで、ファイターの国松が前に出てこないので、遊ばれていると感じていた。

 試合の時にはあれだけ前進をするくせに、こんな風に足を使うとは思ってもいなかったのだろう。それとも体格差のある自分に警戒しているのか、とも前園は考えた。そうであれば尚更体格の利を活かして手数を増やそうと、更に拳を出していく。

 国松の調子が良いのか、その拳は身体を捉えることはできなかった。

 前園は、倒し倒されという国松のスタイルを知っているせいか、もう少しパンチが当たると考えていたのだろう。その自らの考えを、実践を経て修正するように、パンチを細かくコンパクトに変えていく。それでも国松はそれを避けていく。その中で、ボディーへと軽いパンチを数発出した。

 一ラウンド目の国松は様子見、という所だったのだろう。だが前園は試合で打たれることの多いファイターの国松が、これほどまでにディフェンスが良いことに戸惑っていた。次のラウンドこそ当ててやろう。少なからずここで成果を上げれば今後の自分の評価も上がる。そんな気持ちでいっぱいであった。

 二ラウンド目になると、国松は足を使いながらも、一ラウンド目とは異なり、パンチを出し始めた。

 ジャブを軽く出し、相手の隙を見て左フックを見舞う。何発かそのパンチが前園の顔側面を捕らえる。

 徐々に握りを強くしているのか、パンチに重みを感じるようになった前園は、体格を活かそうと前に出てくっつくが、逆に左フックをもらい離されていく。前園がはじめに思った体格の利は、もうそこにはなかった。国松の体の力の方が強かったのだ。

 このままでは不利と思った前園は、足を使い、距離を取ろうとするが、国松の前進するスピードが思ったよりも早く、逃れることができない。

 様子見は終わったとばかりに、頭を振りながら前進をして、国松は左フックから右ストレートのコンビネーションを繰り出す。

 逃げ腰になったら終わりだ。福田が思った直後に前園は追撃する国松の強烈な右ストレートをもらい、キャンバスに腰を落とした。

 屈辱が前園を立ち上がらせたが、一六オンスのグローブとは思えない国松のパンチ力に恐怖を覚えたのか、防戦一方になり、終了のゴングを聞いた。

 二人目のパートナーは、ファレスというメキシコ人である。ライト級の元世界ランカーだ。彼は国松の試合が決まってから、ずっと日本でスパーリングパートナーを務めているのである。ある種頑丈で、国松のボクシングに慣れている選手である。

 彼がパートナーに選ばれた理由には、スピードこそ違いはあるが、背丈、骨格、ボクシングスタイルが、チャンピオンであるゴンザレスに類似しているからであった。

 左ジャブがやけに長い距離に感じる。外国人特有のパンチとリズムの違いが、チャンピオンを彷彿させる。しかしスピードがチャンピオンに比べて遅いせいか、国松はたいした時間を要せずにファレスのパンチの軌道を読んでいく。はじめのうちはブロックをしていたパンチも、一分を過ぎる頃には、体の動きで交わせるようになってくる。

 体の動きがスムーズになってくると、国松はパンチを交わしてすぐに、左ジャブをファレスの腹へと打ち込んだ。下半身が安定しているせいか、そんなパンチを打った後でも体がブレたりすることなく、膝を回転させて元の位置へと国松は戻ることができる。

 何発か左ジャブを上下に繰り返しているうちに、ボディの急所に入ったのか、ファレスがうめき声を上げるが、それ程のダメージではない。

 エンジンが更にかかってきたのか、国松は試合の時のようにベタ足でありながらも素早い足運びでファレスの懐へと入る。

 ファレスも流石に元世界ランカーと思わせるように、その動きを読み取ってバックステップを踏む。だが国松は更にその上を行って、もう一段階、前へと進む。

 そこは完全に国松の射程距離であった。

 逃さずに繰り出された国松の伸びる右ストレートが、ファレスの顎先を捕らえた。一六オンスのグローブの上からでも、中指の上に突起した拳の一点が当たったことを確認できる。肩までその衝撃は跳ね返り、抜けるように伝わってくる。

 そこには確かな手応えがあった。その瞬間、ファレスはストンと腰をキャンバスに落とした。ここ数ヶ月の間に何度となく同じような屈辱を味わっているファレスは悔しがった。それでも立ち上がり、ラウンドをこなしたのは、やはり頑丈であるからなのだろう。

 その後、計五人のスパーリングパートナーを相手に合計一二ラウンド。世界タイトルマッチと同じラウンド数のスパーリングを終えた国松は、平然とした顔で、次の練習を進めていく。

 スパーリングをやった後だからこそ、ロープスキップも全力で行う。それにより更にスタミナを身体に蓄えていく。パンチングボールでリズムを養い、サンドバックに力強いパンチを目一杯打ち込む。仕上げは福田の持つミットへ、様々な状況を想定してパンチを叩き込む。記者たちは国松の調子が良いをしっかりと確認した。

 そんな練習を終えて、シャワーを浴びた後、国松はロッカールームで体重計へと乗った。それは家にあるような家庭用のものではなく、昔ながらの分銅を乗せるものである。国松はその分銅を慣れた手つきで弾いた。

 六三キロ三三グラム。リミットまであと約二キログラム(ライト級のリミットは六一点二三キログラム)。普段の国松の体重は筋肉質のためか、日常の節制をしていても七〇キログラムを越える。約一〇キログラムの減量だが、それをこなしてはじめてプロとしてリングへと上がれるのである。そこにボクサーとしての誇りを感じていた。

「どうだ国松」

 福田は国松が体重計に乗っていることを知り、近寄りながら体重を確認した。

「今回はペースが早いですよ」

 福田は以前、国松に階級を上げることを提案した。階級を上げれば国松は身長というハンデを背負うかもしれない。しかし骨格を考えれば、もうライト級は辛いと思われる。パワーだけを考えればその上のスーパー・ライト級でも十分に通用する。それはボクシング関係者であれば誰もが思っていることでもあった。

 しかし国松は頑としてライト級へと留まり、クラスを変えるつもりは無いと断った。

 その理由を福田は未だに聞いたことはないが、減量は厳しい代わりに集中力を研ぎ澄ます場合もある。それが無くなるよりもマシかもしれない。福田は自らが一度階級を上げたことによって、苦い経験をしている経験から、国松がライト級へと留まることを了承した経緯があった。

「ペースが早い分、集中していかないと気持ちが途切れるぞ」

 ここから二キログラムの減量が、どれほど辛いかを福田は身を持って知っているだけに、後は国松の精神力にまかせるしかないと思っていた。

 一般人の二キログラムは、頑張ればすぐに落ちてしまう。しかし、普段から節制をしている上で、減量をして、削りに削った後の最後は大変なものである。それは本式の減量をした者でなければ大変さはわからない事であった。

 国松はジムを出ると、自宅まで再び走って帰った。練習が終わった後に、それだけの距離を走ることは辛いかもしれないが、日常と同じ事をしているだけの国松としてみれば他愛もない事であった。ただ少しだけ異なるのは、減量による影響であった。少し疲れで身体が重いと感じることもあるが、少しでも体重が落ちてくれればいい。今はそんな思いであった。

 自宅に近づくと、いつもの公園が見えてくる。朝に国松が陣取る公園とは異なり、本来の主と呼べる子供たちが、母親に連れられて遊んでいる。夏の陽が長いせいか、その時間は確実に長くなっているのかもしれなかった。


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