1998年8月20日(木) (2)
(二)
以前ならばボクシングの計量は試合当日であった。しかし数年前から、健康面などを考慮するようになり、前日へと変わっていた。どちらが良かったかという議論は、両方を経験してきた者たちにしかわからないことなのであろう。医学的、肉体的、精神的……様々な面において見解が分かれると思うが、国松にしてみればどちらでも良いことであった。単純にその行為を済ませればリングへと上がる資格を得られる。考えればそれだけの事であった。
カルロス・ゴンザレスにしても同じようなことが言えた。日本人のように無理に身体を絞ることはなかったからだ。アメリカ人ボクサーは普段の体重に近い階級を選ぶ選手が多い。そしてチャンピオンであるゴンザレスも、身体を絞りながらもそれほど苦しい経験をするものではなかった。けれども計量当日は流石に気になっていたのであろう。ホテルの部屋の中で、念入りに体重をチェックする。秤は一個だけではなく、二個、三個と試し、それによって確実に身体の状態を確認していった。
「大丈夫、これで国松を倒す準備は全て調った」
その言葉を出すと、ゴンザレスの気持ちは体重ではなく、試合のみに集中する以外に邪魔するものはなかった。
ボクシングの聖地、後楽園ホール。
この会場は、今までの日本ボクシング界の、数ある歴史が刻まれている。日本チャンピオンだけではなく、世界チャンピオンの誕生にも立ち会った歴史ある会場である。
隣接するように建てられている後楽園球場跡地に建設された東京ドーム・ビックエッグのこけら落しでは、二十世紀最後の鉄人と呼ばれたヘビー級ボクサー、アイアン・マイク・タイソンの興行も行われた。
現在のボクシング事情では、後楽園ホールで世界タイトルマッチを行うことは少なくなっている。会場が狭いという事が第一にあるのであろう。しかし人気の無いボクサーたちは、箱のことまでは気を使ってはいられなかった。それだけ集客が少ないという現状があるから仕方がないのかもしれないが。それでも自らが望んでいる世界タイトルマッチであるから、金額や会場などという単純なもので図ることはできなかった。
世界チャンピオンという称号を得ることによって得られる物、それはチャンピオンベルトのみならず、自らの誇りであった。今回の世界タイトルマッチにおいて、他の会場も選択はあったのだが、前回の対戦が後楽園ホールで行われたこともあり、今一度、倒し倒されという試合が展開されるかもしれない。同じ会場で雪辱を果たす。そんな二人のボクサーの気持ちもあり、後楽園ホールが選ばれたのである。
あとは国松の心情でもあった。後楽園ホールは、父である国松が最期に戦った会場でもあるのだ。そんな思い入れのある会場だからこそ、国松はこの会場で父を超えたかった。
碑は後楽園ホールへと着いた。同じ源ジムの選手の試合が終わってから約一ヶ月の間、足を運ぶことのなかった五階の会場。
明日あるはずの熱気は、今は全くと言って良いほど感じられることはない。ただ静けさだけが漂っている。そこに置かれたリングへと上がるのは二度目のプロテスト以来となる。
そんな会場を横目に見ながら、関係者入り口へと入り、四階への階段を降りていく。よくテレビでも中継される試合では、この階段を登っていく選手たちが映しだされることもある。
まだ時間が早いせいもあってか、誰も着ていない様子である。細い通路には、静けさが嫌というほど漂っている。幾つにも分けられている控室。ジムの選手が試合のたびに訪れる控室と、今は違う感覚を覚える。明日、この控室から戦いのリングへと向かうことになる。そう考えると気持ちは鼓動と共に高ぶっていった。
はじめての試合。碑はその瞬間に、何ができるかなどいうことは判らなかった。ただ一つだけわかることは、そこで殴り、殴られる中で、自らがこの世の中に存在することを改めて実感するということだけであった。
「あの、計量の会場はここでいいのですか」
碑は話しかけられて、思わず座っていたベンチから立ち上がった。知らず知らずのうちに緊張していた自分をその行為で理解した。楽しみだと考えていてもこのような事があるのだと、改めて思って実感した。
「あそこの部屋みたいですけど、まだみたいですよ」
「そうですか、ありがとうございます」
碑の答えを効いた小巻龍二は落ち着かない表情で、再び座った碑の横へと腰を下ろした。見た感じ身長は碑よりも低かった。だがもしかすると対戦相手かもしれない。そう思うと口の中へと出てきた唾液を飲み込み、碑は聞いた。
「あの階級は」
「ライトフライです」
その言葉を聞いた時に、対戦相手ではないとわかり、碑はふと肩から力が抜けることを感じた。
「そうですか。俺は明日フライ級でデビューするんですけど」
「僕もデビュー戦です」
小巻は同じデビューの人間がいるという事で、少し緊張が解けたのか、明るい表情になった。
「それでは計量をはじめます」
そうこうしているうちに後楽園ホールの職員が計量会場の扉を開けて、通路に声をかけた。まだその場には碑と小巻しかいなかったが、二人はその声に反応するように立ち上がり計量会場に入った。二人はプロテストの時に乗った大きな秤がそこにはあり、試合を司る日本ボクシングコミッションの人たちが数名立ち合いをしていた。
すぐに服を脱いで、二人は秤の前へと並んだ。
「階級、選手名、所属ジムを言って、秤に乗ってください」
「フライ級、碑勇次、源ジム所属です」
職員の声掛けに反応して碑は声を出した。それを聞いた職員が、分銅を階級のリミットに合わせる。
「はい、秤に乗ってください」
声に即されてゆっくりと、踏みしめるようにして碑は秤へと乗った。上方へと着いた横板が触れないように分銅が動かされる。
「五〇点一〇、合格」
リミットを下回ったという事実を聞き、碑は緊張を解いた。これで明日、試合のリングへと上がる権利を得た事になる。次に乗った小巻もリミット内であった。
二人は着替えを済ませると、話をせずにまだ計量をする選手がこない四階を後にして、リングのある五階へと向かった。
明日、ここで試合をすると思うと、楽しさと共に緊張により気持ちが高ぶってきた。
「明日、お互い勝ちましょう」
「もちろん、頑張ろう」
そんな言葉を交わし、健闘を讃え合うと、二人は会場を後にした。




