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求め行く者  作者: 祓川雄次


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1998年8月19日(水) (5)

(五)

 国松はジムの外に立ちすくんでいた。今までの自分の中の拘りが、もちろん全てとは言わないが、砕け散った事を確認していた。

 空は曇り、時には雨が落ちてきていたが、それとは異なるように、気持ちは澄み切っていた。雲に隠れている星たちが、思わず見えるような気がしていた。

「後楽園ホールのリングの上を見ると、たくさんの照明たちが、まるで星のように散りばめてあったのを思い出すな」

 国松の元へとやってきた福田は、並ぶようにして言った。雲に隠れている星たちが、明日にはきっと見えていると確信をしているような言い方であった。

「平野は」

 先ほどのスパーリングの事を気にするように、国松は福田に尋ねた。

「ああ、大丈夫だ。ちょっと効いたのだろうけれども、心配はない」

 それを聞くと国松はほっとした思いであった。そして平野が同じジムに存在していてくれたことに感謝していた。スパーリングパートナーとしてではなく、平野の存在があったからこそ、今の自分でいるのではないかと考えていた。一番ジムの中で練習相手になってくれたのだから、そう思うことは不思議ではなかった。平野も同じような事を言うかもしれないが、今日のスパーリングは余計にそんな思いを増幅させていた。

 久恵が来てから、最後の一ラウンド、思い切り入った国松のパンチで平野は崩れ落ちた。それも吹っ切れたうちの一つになっていた事は言うまでもなかった。

「ダウンって言えば、一度だけ大の字で倒れた時、ホールの照明はやたらと綺麗だったのを思い出しましたよ」

「後楽園ホールの星たちだな。今回はどうなるのかな」

「さあ、あまり綺麗な星は見たくないですけれどね」

 国松は明後日に立つ本番のリングを思い浮かべていた。たとえ星を見たとしても、最後に立っているのは自分でありたい。そう考えていた。

「俺が取れなかった世界、取れよ」

 福田は自らの思いを素直に口にした。そんな言葉がプレッシャーになるような国松ではないという信頼があるからこその言葉であった。

「全力をつくしますよ」

 国松は勝つとは断言しないまでも、福田の、そして源の思いも込めて、勝利に向かって邁進するつもりであった。

 ボクサーの誰もが、たとえデビューしたての四回戦ボーイであれ、夢として考えることはできるのが、世界チャンピオンである。

 しかしその舞台に辿り着けるものは、ほんの一握りの人間でしかない。たまにジムの興行力によって挑めない選手もいるが、力不足により、諦める人間がほとんどである。そんな中で、痛みや苦しみ、悔しさを知り、這い上がった者のみが立てる舞台……。そして勝利することを国松は叶えたかった。

 練習を終えて体重計へと乗ると、ライト級リミットまで後二〇〇グラムというところまできていた。ここまできたらほぼ安心であった。人間は寝ていても身体活動をしている。それに伴いカロリーを消費する。寝ているだけでもあとは落ちる。それから計量までの間、何も飲み食いさえしなければ平気であった。

「松崎さん、さっきのパンチは効きましたよ。今までのスパーリングの中で一番効いたかもしれないです」

 平野はロッカールームへと入り、国松の存在を確認すると言葉を発した。着替えを終えて鞄を背負った国松は平野へと向かい合った。

「あのパンチ、明後日はゴンザレスに叩き込んでくださいね」

 平野の言葉を聞いて、国松の中に勇気という言葉が湧き上がってきた。絶対にいける。国松は確信し、明後日にこの世の中で求めてきた、確固たる自らの居場所を形成できるのではないかと考えていた。

「任せておけ」

 国松は一言だけ言うと、平野の肩を一度だけ軽く叩き、振り返ることもせずにジムを出て行った。

 確固たる居場所……。それは今日新たに出来たものもあった。気持ちの問題であるが、今まで国松の中になかった「愛情」というものであった。その感情はジムの外で待っていた久恵を見て、改めて実感できた。

「今日はありがとう。君のお陰で俺は明後日に力を存分に発揮できると確信している」

 ぶっきらぼうに言うと、国松は勝手に歩き始めた。それを追うように歩く久恵はそんな言葉を受けて、嬉しいという笑顔を見せた。

 見失いそうになっていた自らのボクシング、いやそれ以上のものが出来上がった。この数日の間、悩みきった中で久恵が感じさせてくれたものがなければ、完成しなかったのかもしれない。そんな事を感じながら、いつもは走る道を国松は歩いた。

 アパートまでくると国松はしっかりと久恵を見た。何かが起きるかもしれない。久恵の心臓の鼓動が早くなった。

「欲望かもしれない。だけど今、俺は君の存在を知ったことを、心から良かったと思っている。

 たいそうな物じゃないかもしれないが、俺の中に今まで存在しなかった感情を、それが何ていうかはよくわからないけれども、それによって、君の存在を受け入れることによって、俺は一段と強くなれた気がする。

 はじめて会った時に感じた気持ちを、今なら素直に受け入れられる。

 本当にありがとう」

 真っ直ぐな国松の瞳を、久恵は眼を逸らさずに受け止めた。

「私のほうこそ、試合の前だというのに、自分の気持ちばかりで突っ走ってしまって……愛情というものがエゴだという事を今回知った気がしました」

 嬉しいという気持ちと共に、反省の気持ちが久恵の中に同居していた。しかし、国松がそれを受け入れてくれたことに関しては、素直に表情に出していた。

「エゴでも何でもいいさ。

君が言う愛情が、俺の中に芽生えたのであれば、それは良かったのかもしれない。

過去の自分を裏切るとばかり思い、怖がっていたが、受け入れてみたら新たな力になることを、さっきのスパーリングで知ったんだ。

 だからエゴでも何でもいいんだ」

リングの中とは異なるが、迫るような国松の視線を久恵は感じていた。

「私は貴方に会えて良かったのかしら」

 久恵は改めて国松の迫るような視線に対して聞き返した。

国松は今までに見せたこともないような満面の笑みを浮かべ、真っ向から迫るような久恵の眼に対して頷いた。

 その愛情を受け入れた国松が、試合でどのような変化を見せるのか、本人自身も楽しみであった。


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