1998年8月19日(水) (4)
鈴木が去っていったリングの中では、未だに大勢の練習生達が必死に汗を流していた。そんな中に混ざり碑は、ウインドブレーカーを着込んで汗を流していた。自らのフォームを時折鏡でチェックしながら軽く動いていく。それはもう疲れを取りながら減量をするというだけの工程に入ってたからできることであった。そんな中で重要だったのは、自宅の簡易的な体重計ではなく、ジムの分銅付きの物で体重を量りたいという事であった。それが当日の軽量における安心という二文字に繋がるのである。先日、飲みにつれて行かれた時に、仕方なく先輩について行ったが、その時の罪悪感も手伝い、しっかりと体重を把握しておきたかった。
「おい碑、試合前なんだから程々にしておけよ」
トレーナーからの言葉に、碑は「はい」 とだけ答え、リングを出ると、軽くサンドバックを叩いた。
俺も昔は順調に減量を進めることができたのに……やはり年齡のせいもあるのだろうと国松は軽めに動いただけの碑を見て思った。もう少しでリミットである。人のことよりも自分の事が先決だ。国松はそう思い、改めて気持ちを引き締めた。
「松崎さん、今日はスパーやりますか」
平野が遠慮がちに国松に話しかけてきた。
試合二日前であるだけに、本来であればスパーなどはやらずに、疲れを取るという事をするべきなのであろうが、体重の関係もあり、軽めでも動くために国松はスパーをするつもりであった。そんな国松の事を考えると平野は気が引ける思いであった。
「ああ、悪いけど軽めで頼む」
国松はそれだけを言うとスパーリングの準備を始めた。平野もそれにならい準備を進める。
世界タイトルマッチを行う国松が、試合前に行う最後のスパーリングになる。それを考えると指名をしてもらえる、という事は平野には有り難い事であった。それを光栄に感じるからこそ、明日は絶対に休んでもらわなければならない。そんな思いでいっぱいであった。
「試合前という事もあり、軽めだけれども、完全に試合のスタイルになっているな」
昨日までの公開スパーなどとは異なり、完全にファイタースタイルでスパーリングをする国松を見て源は言った。国松のようにパンチ力があり、自らの身体のことを考えずに突っ走るような度胸があれば、自らのボクシング人生は随分と変わっていたかもしれない。自分のボクシング人生を否定する訳ではないが、源は過去の自分の重ねて考えてしまっていた。だが自分のボクシング人生は、あれはあれで良かったのであろう。だからこそ今、源ボクシングジムを構えているのである。そこには源の納得という言葉が見えた。
二ラウンド目に入り、国松の動きが急におかしくなったように思えた。それはリングのそばで見ている福田だけでなく、相手をしている平野も感じた事であった。
「こんな時に……」
国松も自らを心の中で責めた。軽めのスパーリングであってもパンチを貰えば効くことはもちろんあるし、危険な状態に陥ることがない訳ではない。それに減量をしている身体という事も問題である。そんな時になぜか「雪藤久恵」の事が頭を過ってしまった。リングの中で目の前の事以外を考えることは、今まではなかったし、これからもあってはならない事であった。
平野の手加減をした軽いパンチが国松を捕らえたところで、福田がリングを外界と隔離するロープへ手を置いて言った。
「終わりだ、もうやめろ」
試合の前に何かが起きたら、それこそ全てが無に帰してしまう。福田はそうならないためにも、スパーリングを終了するという選択を選ばざるを得なかった。
明日の計量は一四時。それまで多少ではあるが時間がある。そこを有効利用すれば残りの減量を成功させることもできる。スパーリングでなくとも体重を落とすことはできる。国松の身体を考えると無理な減量はさせたくはなかった。しかし国松自体は福田の考えとは異なり、どんな事をしてでも体重を落とそうとするのであろう。それを福田は理解していた。
源は仕方がないと思い、ジムの外へと一度出て気分転換をしようとしていた。そんな時、ふとジムの前にいる一人の女性を見つけた。
「あっ……」
出てきた源を見て、久恵は思わず声を出してしまった。相手の事よりも自分の感情を優先してしまっている。そこに負い目があるからこそ、源から視線を外してしまった。
「この間のお嬢ちゃんか、ちょっとジムの中に入らないかい」
追い返されると思っていた久恵は源の意外な優しい言葉に、戸惑いを覚えた。
「ほら、早くおいで」
源は更に久恵を迎え入れるべく、手を引いてジムの中へと入った。
その開いた扉の中に、唇を噛みしめ、悔しいという表情を見せ、リングを降りようとしている国松の姿があった。
リングを降りた時、思わず国松と久恵の視線が合った。
何を悩んでいたのだろうか、自分の気持ちを今まで認めることができなかったが、もう認めてしまっていいのではないか……。
国松は本能的に久恵の存在に輝きのような物を感じ、それが自分に取って力になるのではないかと思えて仕方がなかった。久恵はその視線に引き寄せられるように、ジムの中へと入り、源が進める椅子の前に立ち、国松を見つめた。
「すみません、もう一ラウンドだけお願いします」
国松は福田に頭を下げた。新しい感情を受け入れた自分が、どれほどの力を発するのか、それを確かめたかった。先ほどとは異なり、上の空で考えていた久恵の事を、違う形で考え受け入れた時であった。
顔を上げた国松の目は、先ほどとは打って変わって力強いものであった。
「わかった、一ラウンドだけだぞ」
福田も目に力を宿した国松がどのようになるのか、確認したい気持ちでもあった。源が言っていたように、久恵を受け入れた国松がどのように変化をするのであろうか、確認しようとしていた。
国松は真剣であった。源の横でリングを見つめる雪藤久恵という人に、自分の進化した姿を見てもらいたいと思った。
ここ数日、自らを悩ませた新たなる感情が何であるかなどは表現できなかった。言葉にすることよりも、本能的に受け入れてしまえば良かっただけなのである。考える動物になってしまった人間が、あれこれ考え過ぎるが故に、何かを見失ってしまう事もある。
俺は、単純で良い。ただ彼女に自分の戦う姿を見ていてもらいたいだけなのである。感情を受け入れた事により、今まで以上に力が芽生えてくるような気がして、思わず国松は力を入れたグローブの中の拳を見た。
国松は今一度、久恵を見た。久恵はその視線に対して、自らが受け入れられたと直感したのか、思わず頷いた。
「平野、本気で行け」
「いいんですか、明日は世界戦の計量なんですよ」
福田の問いかけに、ビックリした表情で平野は答えた。何かがあってからでは遅いのである。
「かまわない。本気で行かないとお前がやられるぞ」
福田の言葉に平野は身を引き締める事しかできなかった。そんな会話が聞こえていた訳ではないが
「悪いけど思い切りいくからな」
と国松は福田の言葉を肯定するように言った。
平野はとっさに緊張感を持った。悪い緊張ではない。それは良い方に作用する緊張であった。それをまとって平野は、試合同様に、クラウチングスタイルでくる国松を迎えようとしていた。
ゴングを待つ国松は静かにグローブの中の牙を研いだ。吹っ切れた自分が、今まで自らの中になかった感情を受け入れた自分が一体どれくらいの力を発揮するのか、楽しみでしかなかった。




