1998年8月19日(水) (3)
(三)
いつもの通り、国松は源ジムへの道のりを走っていた。試合が終わればしばらくは走ることのない道である。習慣がなくなることは、ある意味で怖いことでもあるが、試合後だけは安堵して歩くことのできる道である。その道を、自らがチャンピオンになって、堂々と歩きたいと思っていた。
だが今日の道のりは習慣どおりではなかった。
丁度ゲームセンターの前を通った時であった。
一人の青年が三人の学生たちを相手に、派手な立ち回りをしていた。そんな光景を見て、昔の自分を思い出したのか、国松はふと足を止めて見入った。
あの頃の俺と同じだな。
そんな感傷が胸の中に湧いてきた。他に何か目指すものがあれば、あのような横着をしてまで自らの存在確認をすることもなかった。しかし当時の国松としてはそれを行うことでしか、自分を表現することはできなかった。それほど未熟だったという事だ。
青年の顔はすでに腫れ上がっていた。国松は自分と同じ感情かどうかは知らないが、荒んだ時代に暴れることでしか、真っ直ぐに自分を表現できない。そんな純粋な男たちの気持ちもわかる気がしていた。だが若いうちはそれでも良いが、いつまでもそんな気持ちを引きずれば、甘えもでき、新しい扉は開かれることはない。
自分はたまたま福田という存在がいたからこそ、ボクシングの存在を知り、横着や喧嘩三昧の日々から抜け出すことができたのである。
国松だけではなく、数人が遠くから四人の喧嘩を傍観していた。止めるでもなく、何となく行く末を見ているだけなのであろう。莫迦同士が遣り合っている。そんな上から目線で、自分たちですら大した存在ではないのに、見ているのかもしれない。誰もが本気で人と向き合おうとしていないだけなのかもしれない。そんな寂しい感覚が国松の中に生まれた。
それにしても三対一という状況に納得のいかない国松は、何となく男たちの間へと入った。
「おう、お前たち。やるなら一対一でやれよ。見ていてやるから」
莫迦な奴が割り込んできた。そんな事を考えると三人の学生は感覚的に冷めていくような感じを受けた。若さゆえの自由にならない理不尽さが喧嘩をした原因であるのかもしれない。それは誰に向けてでも構わないのである。
「今度見たらただじゃすまないからな」
三人の男は、青年の覚悟とは異なり、ただの自分たちの力を誇示したいだけであったのかもしれない。しかし一人取り残された青年はそうではなかった。だから途中で喧嘩を止められたことに腹立たしさを覚えていたのであろう。
「ふざけるなよ。あいつらが逃げたじゃねえか。どうしてくれるんだ」
国松にはわからないが、やはり何かの原因があったようである。それが大きかろうが小さかろうが、青年にとっては大切なことであった。だからであろう。その矛先を変えて、青年は国松に殴りかかってきた。
国松は簡単にその拳を避けた。素人のパンチが、ボクサーと呼ばれる人たちを捕らえることは難しい。四回戦と呼ばれるC級ライセンス保持者であっても素人のパンチが彼らを捕らえることはあり得ないのだから、世界挑戦をする国松に当たるはずはなかった。
「お前の拳が当たるかよ」
少しだけ挑発をするように、福田との出会いを思い出し感傷に浸りながら、国松は青年の怒りのこもったパンチを避けていく。
喧嘩のパンチというものは長く続くものではなかった。合理的ではないパンチは、酷く体力を消耗するものである。しかも顔ばかり狙ってくる軌道はわかりやすかった。
「何者なんだ」
疲れ果てアスファルトに膝をついた青年は、対峙した敵わない相手が誰であるのか、知りたかった。国松は自分が福田に対した感覚とは異なる青年の感情を読み取った。
「ついてくる元気があるならば、教えてやるよ」
それだけを言うと国松は今までにないくらいに、ゆっくりと走り始めた。男はどうしても国松の正体を知りたいのか、よろよろと立ち上がり、国松の背中を追いかけてきた。
いつも以上の時間をかけて国松はジムへと着くと、後方を振り返ってみた。先ほどの青年は普段走る事をしないのか、苦しそうな表情のまま、それでも国松についてきていた。
「なんだよ。ボクサーだったのか」
ジムの看板を見るなり男は、国松がボクサーという事だけを知った。だがジムの入り口に貼られているポスターをまじまじと見た時に、国松がただのボクサーではない事を理解した。
「何だよ、それも世界タイトルマッチに出るようなボクサーかよ」
そう呟いた鈴木ヒロシは、町では喧嘩でならしたことがあることを自負していた。しかしボクシングというものはまるっきり知ることはなかった。テレビでたまに見る世界タイトルマッチなどを見ていると、何となく勝てそうな感じを受けるが、それが間違いであった事をやっと理解できたのである。それでも四回戦ボーイくらいならば何とでもなると軽く考えていた。
「入るか」
国松は鈴木を誘った。鈴木はその誘いに乗り、恐れる事無く、ジムの門をくぐった。
「会長、昔の俺だよ」
そんな国松のぶっきらぼうな紹介を察して源は鈴木へと近づいた。
「昔の国松か……世の中に対して煮え切らない思いをしているってやつか」
少しだけ茶化すようにして源は言った。しかし言葉とは異なり、目は真剣であった。国松ほどの自信家ではないだろうが、その辺りの奴には負けないという自信が溢れているような目だと思えた。
「国松にはやられたのか」
「やられてねえよ。ただ一発も当たらなかっただけだよ。
まぁ世界タイトルマッチをやるような奴じゃあしょうがないと思ったけどな」
鈴木は負け惜しみを言った。しかしその言葉は、適当なボクサーならば勝てると言わんばかりであった。
「活きがいいやつだな」
源の言葉に国松が答えた。
「そうでしょう、俺に殴りかかってきたくらいですから」
「昔の誰かと一緒だな。ボクサーにでもしたいのか」
思わず福田が割って入ってきた。
「力が余っているなら、ボクシングをやってみるか」
源は鈴木を誘った。やる気がない人間に無理にやらせようとは思わない。しかしどこかで鬱憤が溜まっているのであれば、吐き出してやりたいとは考えていた。
「プロなんて、なろうと思えばすぐになれるんだろう」
鈴木は強気であった。源は面白いと思ったのか、リングを指差して言った。
「すぐになれるのであれば、あいつの相手でもしてみるか。
プロで二戦一勝一敗の奴だ。どうだ。腕試しでもするか」
先ほどまでの喧嘩の興奮と余韻も手伝ったのだろう。鈴木は四回戦、しかも負けが付いている相手になど簡単に勝てると考えていた。
その言葉を聞いて指を指された当の本人である平田忠俊は、汗をバンデージで拭いながらシャドー・ボクシングをしていたリングを降りて、源に近寄った。
「会長、練習生に相手させればいいじゃないですか」
平田は素人の相手などはまっぴらというように言った。
「まあいいじゃないか。ちゃんとプロが相手してくれた時に自分がどうなるのか、思い知らせてやるのも」
平田は源がいたずらっぽく笑いながら言い、引く気がなさそうなので、仕方なく引き受けることにした。だが素人を相手という事で気は進まなかった。人に対して優しすぎるからついた一敗を源は何となく考えていた。だからこそ鈴木の相手ができると思ったのも確かであった。
「平田、大丈夫だ。思いっきりやってやれ、一度や二度倒してもいい。
それで立てなきゃそれだけの奴だったという事だ」
鈴木を連れてきた国松が言った。責任は自分が取るというような言葉であったが、やはり平田としては気が引けてしまった。
福田は素人を相手にするという事を聞いて源に大丈夫かと言ったが、
「お前も素人相手にスパーリングをしたじゃないか。しかも引退してすぐに……」
それを言われて福田は思わず昔を思い出して、源と顔をあわせて笑ってしまった。
鈴木は違和感を覚えながらグローブとヘッドギアをはめてリングの中へと入った。思ったよりも硬くないリングのキャンバスを踏むと、今までにない緊張感が胸を覆った。街での喧嘩ではない、それを身を持って感じる。四角い逃げ出すことのできないリングが更にその感覚を強くしていた。練習生たちは手をとめてリングを見ている。その視線が更に鈴木の緊張を誘う。
「頑張れよ」
国松が軽くかけた言葉に怒りを覚えたのか、負けている選手くらい、という気持ちが湧き上がってきた。しかしそんな鈴木の思いは、すぐに覆されることとなった。
ゴングが鳴らされると、平田のジャブが数発、顔面へ当たった。鈴木はそのパンチを見ることができないのか、驚いた表情を見せる。
攻めなければいけない、そう思い襲い掛かるが、平田は軽くブロックや頭を振ってかわしていく。そんな中、未だに右のパンチは出さずにいた平田が、思わずストレートを出してしまった。思い切り打ったパンチではない。どちらかといえば途中で止めるようにして打ったものであった。しかしそれを顔面へと受けて鈴木は倒れた。街でもこんなに綺麗に倒されたことはない。
「どうした四回戦相手にクリーンヒットもできないのか」
源は煽るようにして天井を見た鈴木に言葉をかけた。
「くそったれ」
その言葉に精一杯反発するように鈴木は立ち上がった。しかし体が思うように動かない。再び平田のジャブが顔面を襲う。鼻血が流れ、キャンバスへと再び舞った。
悔しいが何もできる気がしない。街での喧嘩とボクシングは違うものである。情けなさが鈴木の心を覆っていた。
「俺も最初は福田さんにコテンパにやられましたね。思い出しましたよ」
鈴木を見て国松は懐かしく思い、福田に話しかけた。
「だがお前は必ず立ち上がってきたよ。最後は立てなくても俺を睨み続けていたからな」
下を向いて戦意を喪失している鈴木を見ると、普通はこうなのだろうと福田は考えてしまうが、そんな国松だからこそ、世界挑戦まで辿り着けたのであろうと思い、笑顔を国松へと返した。




