1998年8月19日(水) (2)
(二)
碑は午前中から友人と会っていた。今日の仕事が午後からという事もあり、しっかりとロードワークを終え、練習に付き合ってもらっている友人の構えるミットへと、パンチを叩き込んだ。
「なんか調子いんじゃないの」
少しだけボクシングをかじった石田は、手に受ける感触を素直に口にした。
「ああ、結構調子はいいかも。このままなら勝てる気がするよ」
言葉では好調を口にするが、相手がわからないなどの不安要素はあった。それ以外にも調子が良いと感じている時に、失敗をすることは今までもない訳ではなかった。だがもうここまで来たら自分を信じてやるしかなかった。
「大丈夫、努力は絶対に報われる。
必死でやってきた先輩を俺は見ているから期待しているよ」
ガキの頃から知った仲である石田は、碑の頑張りという物を嫌という程見てきた。実際、運動能力が高い訳ではないが、その頑張りによって何かを成し遂げるという事を昔からしてきたと思っていた。器用なのかと思えば、正直に自分の存在に悩み、苦しむ不器用さの中で、碑は自分自身に真剣に向き合ってきた。そんな人間臭さが、石田との関係を今まで繋ぎ止めていたと言っても過言ではない。だからこそ信頼という言葉が二人の間には存在していた。
「ああ、とりあえずプロのリングに上がってくるぜ」
碑はグローブをはめている拳を石田に向かって突き出した。石田はミットをはずし、素手で拳を作った。そして二人は拳をぶつけ合った。
「ああ、会場で応援しているから、勝つところを見せてくれよな」
友人の言葉に有難味を感じる。碑は何とかなるだろうと、不安を払拭し、自分を納得させた。
橘は朝からワードプロセッサーと睨めっこをしていた。
WBAライト級タイトルマッチに関する前書きのような記事を、黙々と書き連ねていた。 その中には前回の対戦のことや、ゴンザレスの今までのボクシングと公開スパーリングの事、国松の個人的な評価など様々なものが含まれていた。そんな事を書いているうちに、前回の対戦シーンが、脳裏に鮮明に思い出された。
初回は国松が打って出た。相変わらずのベタ足のクラウチングスタイルでワイルドなパンチを振るう。それに対してゴンザレスは足を使い、ジャブ、ストレート系の真っ直ぐのパンチで国松の突進を止め、巧くポイントを重ねていく。
中盤からは徐々に国松のプレッシャーがゴンザレスの足をさばくものから、逃げるものへと変えさせた。そのせいもあってか国松のクリーンヒットも少しずつ増えていく。
はじめのダウンシーンは九回。ゴンザレスのカウンターであった。国松はダメージと疲労を抱えながらも、立ち上がり反撃を仕掛けていくが、ゴンザレスは無理をせずに自分のリズムで国松をコントロールした。
誰もがチャンピオンの勝利を確信していたはずであった。だが一一回に国松の逆転のパンチがゴンザレスに見舞われた。驚きでざわめく中、再びパンチを食らい国松は倒れ、試合は終了した。
今回の国松の戦法は同じであろう。いや今回だけではない。いつもと同じという方があっているのだろう。
だが公開スパーリングで見せたとおり、しっかりと急所を捕らえるようなパンチが本番でも繰り出せるのであれば、結果は前回とは異なり、ひっくり返る可能性が高い。
ゴンザレスも出方は前回と同じであると、橘は予想していた。しっかりと足を使いながら国松を止めようとしてくるであろう。ただし前回と異なることは、それを中盤や終盤にも使えるようにしてきていると思えることだ。誇り高きチャンピオンは、前回と同じような過ちを犯すことはない気がする。
公開スパーリングで前回よりもしっかりとした足を作ってきたことを、東洋ミドル級チャンピオンを相手に証明している。ジャブと早いフットワークの他に、疲れない足と打ち合いにも強くなっている事を感じさせた。
それを考えると国松のパンチが当たる確率は低くなっているような気がする。しかしその打ち合いの中で、国松のハードパンチが一発でもゴンザレスの急所を捕らえることがあれば、無傷ですむことはない。
橘は色々と頭の中で想定しながら、同じ日本人として国松に有利な状況が生まれないかと願っているところがあった。
ボクシングのみならず戦いの勝敗は光りと影でしかない。表裏一体の中で、自分の思惑通りの展開が訪れるかどうか……。気持ちの中に、期待と不安が入り混じっていた。
その明暗が確定するまであと二日……。
橘は仕事を度外視してでも楽しもうとしていた。




