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求め行く者  作者: 祓川雄次


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20/22

1998年8月18日(火) (4)

(四)

 国松はジムへと向かい、いつものように走っていた。もう練習を打ち上げても良い時期である。行ったとしても軽く動く程度で良い段階であったが、国松には他にも行かなければならない理由があった。

 それは減量という、ボクサーには必ず付いて回る二文字のためである。それをクリアできなければ、いくら試合をしたいと言っても権利はなくなってしまう。いや、もしも試合が出来たとしても、条件なども問題からそれはタイトルマッチという枠からはずれてしまう。国松はそういう訳にはいかなかった。

 数日前から佳境に入ってきた減量であるが、最後の一キログラムが落ちきらない。水抜きという方法で落とす選手も存在するが、絞りに絞ってきた国松の身体は、そんな事ではどうにもならなくなっていた。だがいつもの試合とそれほど変わりは無い。国松はボクサーとしての資格を得るため、これまでもそんな減量を行ってきたのである。

 ジムへと入り、そんな身体で打つサンドバックは、試合前の減量と過酷な練習の疲労も重なっているのか、明らかに昨日のスパーリングの時よりも落ちるのが目に見えてわかった。

 パンチと共に身体が軽くなっているようにも思える。だが逆に疲労で重くとも感じる。そんな矛盾した錯覚の中で、もしかするともうリミットをクリアいているのではないかと希望的観測を考えてしまう。しかし不安からなのか、国松はひたすら最後の力を振り絞ってサンドバッグを叩き続けた。

 ギシッ、ギシッ。国松よりも大きく思えるサンドバッグを吊るした金具が、国松を嘲笑うかのように音を立てる。それに反発するように、ドスッという音をサンバッグに響かせる。

 隣りのサンドバックでは、国松と同日の試合に備えて流すような軽い練習をしている碑が、国松とは比べものにならないような音をたてていた。フライ級という国松のライト級からは四階級下の階級のせいもあるのだろうが、ズシッとくるようなものではない。どちらかといえば碑のパンチは切れるソリッドパンチと呼ばれるものである。だからなのか、たまにスパーンという、抜けるような音を奏でる場合がある。

 国松はその音を聞いて、ゴンザレスのパンチの質を思い出した。彼のパンチは碑と同じように切れるパンチである。しかし碑よりは確実に重たい。ゴンザレスのパンチは、意識を失わずに、身体の感覚のみを削いでしまうものである。それは前回の試合の最後のダウンで実証済みである。決してそのゴンザレスのパンチに負けてはならない。疲れた体で国松はそう思うと、未だに負けを知らないゴンザレスの影をサンドバッグに思い浮かべて、力強いパンチを何とか打ち込んだ。

 インターバルへ入ると、国松は身体に重さを感じながらも、それを見せることを極力避けた。試合でも同じように、少しでも疲労を見せたら相手に読まれ、付け込まれる。出来る限り練習でも同じようにして習慣付けたかった。

「カーン」

 再びラウンドの始まりを知らせる、ゴングの鈍い音が鳴り響いた。国松と横にいる碑は対照的な音を立てながらサンドバッグを揺らしていく。

 碑のコンビネーションが小気味良く旋律を奏でた。左ジャブの後にダッキングをして、ワンツー、その後身を低くして、相手の懐に入るようにウィービングをしてから右ストレートを放つ。それに気を良くしたのか、少し距離を開けてから左ジャブ、右アッパー、左フック、右ストレートを放つ。これは碑が得意としているコンビネーションである。

 四回戦のクセに巧いな……。国松は思わず視界の端に入った碑の動きを見て思うが、所詮はサンドバッグという動かない相手に対してである。プロのリングの上でそれを出すことができなければ意味はない。

 ゴングが鳴るとほぼ同時に碑は左ジャブを出した。しかしそれはサンドバッグに後数センチ届かなかった。だがその距離から右ストレートを当てたのである。しっかりと腰が回転している証拠だろうが、先ほど思った通りに、実践でそれを使うことができるのか……もしも使うことができたとしたら面白いのではないかと、楽しみな後輩がいることを国松は認識した。

 サンドバッグ打ちを終えた国松は、軽めと称しながらも、平野を相手に四ラウンドのスパーリングに入った。たった一日で身体が変わってしまったかのように、昨日のスパーリングとは打って変わった内容であった。自分のペースで進めながらも、なぜか精神的に追い込まれているように感じられた。減量の問題もあるのだろうが、他に自らを精神的に食い込むような材料があるのかもしれない。

 何となくそんな事を考えた時に、平野のストレートが国松を捕らえた。今は変な事を考えている場合ではない。スパーリングという作業に集中しなければならない。

しかしそう思えば思うほど、自分の中の不安が大きくなっていく。それが何であるのか、国松には大体の検討が付いていた。しかしそれは自らの今までの人生を裏切ることになり兼ねない。新たに生まれる感情。それを否定したい自分と、したくでもできない自分がそこには介在していた。久恵に対して吐いた先日の言葉が、これほどまでに自らを縛ろうとしていることに、苛立ちを感じる。だからこそ、平野にではなく、自分自身の中で追い込まれるようなプレッシャーを感じていたのである。

「莫迦野郎」

 心の中で、自らを叱咤しながら、国松はパンチを繰り出した。

 練習を終えて家路を走っている時も、何故か頭を離れない気持ちが気持ち悪く、嫌で仕方が無かった。

 自宅へと帰ると、全ての衣服を脱ぎ捨てて体重計へと乗った。今日の練習でほとんど体重が落ちていない事を実感する。なぜここまで苦しい思いをして「ライト級」へこだわるのか……。

 前回、負けた相手であるゴンザレスがいる階級という事もあるが、それ以上に、自分の中にある拘りが、存在していた。美和に言われた通り、それは父親に対する気持ちであった。

 最初に福田につれてこられたジムの中で、ボクサーという男たちの背中に、自分が否定していた父親の姿を見たからだ。なぜかボクシングに引き込まれたのも、父親がこの世界の住人であったからだろう。

 デビューしてからというもの、父親に対する思いは消えてはいなかった。美和に対しては否定したが、自分の中にそれがしっかりと存在することを、国松は知っていた。

 だからこそ、父親がどのようにボクシングを行ってきたのか、否定してきた父親をどうにかして超えるために、横着ばかりだった人生から抜け出し、生きる道を見つけたのであった。だからこそ、父親の名前をリングネームにして、同じ階級で戦うことを決めたのであった。

 それでも俺は、俺のためにボクシングをやっている。誰のためでもない。自分の人生を納得させるために……。国松は呪文のようにそれを繰り返した。

 自分は誰のためでもない。自分のために……それはある種、精神安定剤のように、国松の感情を落ち着かせていった。

 

 久恵は部屋の中から、月を見ていた。

 決して闇は光を支配できない。そのかわりではないが、光もまた闇を支配することはない。だからこそこうして、昼と夜という二つの顔がこの世の中に存在するのである。

 人の感情も行動も、きっとそれに近いものがあるのだろう。だからきっと闇を抱えている人にも光は訪れる。それはどんな問題に関しても、である。ただ行動に移さなければそれは叶うことはない。

 久恵はそう考えていた。

 源が言っていた言葉を希望という文字に置き換えて、なんとかして国松との関係を望み通りに叶えたかった。それが人間らしい「エゴ」という言葉になろうとも、久恵はそれを押しと通そうと考えていた。

 だがその問題の前に、久恵のところへ届いた光りは就職という問題であった。出版社から内定の連絡が封書で届いていたのである。先ほどその事を岡橋に伝えた時に、彼女の元にも内定の連絡があったという話を聞いた。

 久恵としては、内定をもらった会社に就職をしたいと考えていたが、まだこの時期には取り消しなどがないとも限らない。だからまだ幾つかの候補にしている会社の面接は受けてみるつもりであった。

 そんな不安定という言葉の上にあぐらをかき、逆らうことのできない弱い立場の自分たちがいる。選んでもらうということはそういう事なのである。国松に選んでもらうという事も、ある意味似ていることなのであろう。

 これからの人生で、いくら逆らおうとしても逃げることのできない激流もあるだろうし、足を地につけて、のんびりできる時もあるだろう。

 彼女が今抱えている問題は、決して逃れることのできない激流ではない。自分が行動することによって、そこに安堵をもたらす結果が産まれるかもしれない。

 だからこそ久恵は、国松という一人の人間に対して、自らの気持ちを今一度伝えたいと考えていた。


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