表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
求め行く者  作者: 祓川雄次


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/22

1998年8月18日(火) (2)

(二)  

 久恵は昨日、国松と別れた後ずっと泣いていた。その泣きはらした目を気にするように、鏡台の前へと座った。直接ふられたという感じではないが、国松に受け入れられないのだという気持ちが、家に帰ってきても胸に刺さるようで、今にも涙が溢れそうであった。けれども今は涙を流すように、簡単に自分の気持ちが諦められるものではないと思えていた

 国松が試合前という事もあるが、そんな時に悪いと思いながらも、自らの気持ちは今しか走ることができないと、理由もなく考えてしまう。

 今日は就職活動もない。だからと言っていつもの生活のリズムを変えたくないと、しっかりと起き、朝食も取った。友人たちの中では朝食を取らない人たちもいるようであるが、久恵のリズムであった。

 鏡に映る自らの姿を目に入れる。そんな自分を、私は愛しているのである。久恵はそう感じていた。松崎国松という人物を好きである。その気持ちは、最終的に鏡のように国松を通して自らに向いているのである。人を好きになるという事は、自らを好きでなくては成立しない。だが、そこまでは一気に望むことはできなかった。何故ならばそのためには国松の成功と、自らを受け入れるという二つの受諾が必要になるからである。今の国松の成功とは、目の前にある世界タイトルマッチで勝つ事である。

 そう考えるのであれば、今の自らの気持ちは抑えるべきなのであろう。しかし人としての感情はそうはいかなかった。理性で抑えることが簡単にできるのであれば、様々な事件などは存在しないし、数々の物事を処理できるのであろう。だけれどもそれができないのが人間の感情である。久恵は自らの人間としての弱さが、感情を制御できない事を理解していた。

 親を亡くし、誰にも頼らないで生きてきたつもりであった。しかし友人たちに支えられて生きてきた事は十分にわかっている。それでもここまで自分が弱い、と思えてしまうことは両親が亡くなってから久しぶりであった。だがそれと同時に、甘える場所ができたという事もあり、そこに寄りかかってみたいとも思っていた。

 矛盾する二つの気持ちが、鏡に映る腫れた瞼に宿っているようであった。


 国松はいつもの倍の量のロードワークをこなしていた。試合までの残り日数に、アルバイトが無いということも、時間的に許すという事につながっていた。だが残り一キログラムという物が、落ちにくく、遠い物という理解もあったのだろう。けれども足が前に進む理由は、それでだけではなかった。国松の中でも、昨日の出来事が尾を引いていた。

 自分の中に新たに生まれそうになっている「愛情」という感情を、簡単には受け入れられないのである。今まで生きてきた自分の人生を否定してしまいそうな感覚である。それを安に受け入れてしまったのであれば、自らの存在すら失いかねない。だが一方で久恵に惹かれていくという感情は、日々増していくようであった。

 世界タイトルマッチという、国松に取って人生でもう一度有るか無いかという大舞台を前に、何を考える必要があるのか……そんなものは断ち切れば良いだけである。だがそれができない自分が理解できなかった。今までこれほどまでに感情を引きずることなどは無かった。それが彼の走りを止めることができない原因にもなっていた。

 気持ちを引きずるようにして、国松はいつもの公園へと入った。試合前でも興奮した気持ちを落ち着けてくれていたはずの、自分にとってのオアシスも、今まで経験したことのない感情に圧迫される国松を、落ち着かせてくれることはできなかった。

 減量も最終段階に近づき、身体も厳しくなってきている。それと共に精神的にも彼は追い詰められる気がしている。比例するように「水道」というものに対する気持ちも膨れ上がる。意思の炎を消してはならない。国松は自らに言い聞かせるようにしてシャドー・ボクシングを始めようとした。

 だが国松は自らの身体に切れがないように思えた。それどころか、昨日まであんなにはっきりとイメージできていたゴンザレスの影が浮かんでこないのである。無理にでも考えようとすると、そこには自然に久恵の顔がちらついてしまう。

 彼女のことは考えるな。自らの今に集中しなければ……そう考えれば考えるほど、焦りは大きくなり、再び久恵の顔がちらついてくる。

「くそったれ」

 小さく呟くように言うが、本当は大声で叫びたかった。

減量と疲労で重くなった身体を無理やり動かしていくと、華麗なシャドー・ボクシングではなく、試合の時のような無骨なスタイルが自然に出来上がってきていた。

 前回の負けと共に、今回の自分の中での割り切れない気持ちを、大きな炎のようになった気持ちで焼きつくしていく。その炎は「弱さ」故の勇気を駆り立てるようであった。動く先には確実に真実しかない。そのような理を自分の中で構築することしかできなかった。

 国松は動いているうちに吹っ切れたのか、いつの間にか描けるようになったゴンザレスの影を、クラウンチングスタイルで前進しながら追い詰め、捕らえようとしていた。前回のスパーリングで見せたように、右足のバネを存分に使った左フックに、更に左足のパワーを足した物を、空に向かって解き放った。

 一瞬、風が切り裂かれた。その空間にとまった空気が跡形もなく崩れ落ちるような錯覚が起こる。そこに相手が崩れるようなイメージが重なる。

 そして立ち上がってくる相手を、今までにも増してアグレッシブに追撃していく。影のゴンザレスのパンチを、頭を振り交わすイメージを作りながら、攻撃を仕掛けていく。今までの国松以上に攻防が一体化している。「愛情」という恐怖に怯え、自らの「弱さ」を実感したからこそ、そんな覚悟の上にできた動きかもしれない。しかし国松はそれを考えたわけではなく、無意識であり、理解すらしてはいなかった。

 動き終えると思わず「水道」を見てしまうが、国松はそれをすぐに吹っ切るようにして、公園を出て走り始めた。

 六畳一間のアパートの前へと着くと、何となく雰囲気がいつもと違う事に気がついた。しかしそれが何であるかは全くわからなかった。あくまでも国松の感覚が直感した事であった。それはギシギシと音を立てる廊下を歩き、部屋に近づけば近づく程、確信へと変わっていった。恐れという感覚はなかった。しかしながら警戒心は強くなっていった。国松は自分でも、拳に力が入ってくることに気がついた。

 鍵をゆっくりと回し、なるべく音を最小にして、部屋の扉をと開けた。そして中に入った時に、その警戒心がまるっきり意味のないことを理解した。

「澄雄」

 国松の顔を見るなり、部屋の中へと座っていた一人の女が立ち上がって名前を呼んだ。父親である松崎国松の姉、現国松に取っては伯母に当たる三上美和であった。その横には美和の子供であり、国松に取って従姉妹に当たる恵美子が座っていた。

「何だよ、急に来てどうしたんだよ」

 国松の表情が不機嫌さを身にまとった。そしてそれを現すかのようにぶっきらぼうに答えた。なぜこうも大事な世界タイトルマッチの前に、次々と面倒が起こるのか、国松としてはもちろん望むべきものではなかった。

「この間の見合いの話は……。返事が来ないから心配になって……」

 国松の世界タイトルマッチ前という事情を考えない美和の言葉であった。

「そんなもの俺には関係ない。もうすぐ試合なんだ。帰ってくれ」

 更に上から睨みを利かせるようにして、美和を見ながら国松は怒気を込めるように言った。

「そんな世界タイトルマッチなんて、伯母さんからしたら関係ないのよ。

 私は澄雄の将来が気になってしかたないから」

 近づきながら強く言う美和の言葉を遮るように、国松は強い視線を返した。

「俺の将来なんてあんたには関係ないだろう」

 その言葉の強さに美和は一瞬動きを止めた。しかし言葉は口を出た。

「あなたのお父さんが亡くなってから、ずっと面倒を見てきたあなたが、テレビでボロボロになる姿なんか見たくないの。

 結婚をして、子供を作って、当たり前の生活をして欲しいと思っているの」

 少し泣きそうになるような感情のこもった言葉であった。その光景を座りながら恵美子は何も言わずに見ている。恵美子からしても弟のような存在である国松には、さっさとボクシングなど辞めて幸せになって欲しいという思いがあった。

「そんなのは俺に取っては幸せじゃない。

あんたの許を出た時に言ったはずだ。俺にはもう関わるなと」

 昔の横着ばかりしていた国松であれば、手が出る場面であった。しかしボクシングをはじめてからは、競技者としてそんな事はできなかった。ましてや世界を争うパンチである。一般人に対してそれを振るったらどのようになるのか、逆に想像が着かない事態になってしまうことは、容易に考えがついた。

「関わるに決まっているでしょう。あなたの事をどれだけ心配しているか」

 美和の頬に一筋の涙が流れた。

「国松が亡くなってから、あなたは私たちの子同然で、恵美子と一緒に育ってきたでしょう。心配でないはずが無いじゃないの」

 育てたという言葉に国松は眉を動かして反応したが、何も言葉を出すことはなかった。心を開いた事など国松は一度もなかった。両親がいない閉塞感の中で、感情は薄れていくばかりであった。その反動が、愛を感じずに、人の痛みも感じずに暴力を振るう人間に国松を変えていったのである。更にそこに拍車をかけたのは美和とその夫であった。

「心配なんてしないでいいよ、まぁ元々心配なんてなかったのだろうから……。

俺はボクシングに救われたんだ。あんたたちに救われたわけじゃない。そうじゃなきゃ今頃は野たれ死んでいたに違いない。

 だから俺はボクシングを辞めるつもりなんかない。

それに女なんかにかまっていたらボクシングに集中できなくなっちまう」

 その言葉には、久恵への気持ちを吹っ切りたいという願望も込められていた。

「澄雄がボクシングに向いたのは、おじさんの願いだったのかな」 

 ポツリと恵美子が呟いた。

「おじさんがなれなかった世界チャンピオンという夢が、澄雄に継がれたのかな」

 立ち上がりながら恵美子が続けた。そして美和の肩をそっと抱いた。

「国松になんかとらわれなくていいの。あなたの人生を生きて欲しいの」

 美和は言いながら、涙を流し、そして唇を噛んだ。そこには澄雄に対する罪悪感が含まれているようであった。

「オヤジがどうとか、そんなモンは関係ない。俺は俺の意思でボクシングをやっているだけだ。

 もう帰ってくれ、疲れているんだ」

 その言葉に押されるようにして、恵美子は美和を即して部屋を出て行った。

「試合、頑張ってね」

 恵美子はそっと一言、部屋を出る直前に、国松に言葉を残していった。

 美和が言ったように父である国松を超えるという気持ちがない訳ではなかった。しかしもうそんなことは関係ないのである。男として、最強の対戦相手を倒したい。国松の中にはそんな純粋な気持ちだけが存在していた。


 久恵は何となく家を出た。塞ぎこんでいる中で部屋の中にいるよりも、空の下を歩きたかった。

そんな空は曇っているが開放感はあった。

 国松を思う気持ちが、行く先の無かった久恵の足を源ボクシングジムへと向けていた。  そしていつの間にか昼の、まだ開いていない源ジムを外から眺めた。

 ここで国松のボクサーとしての顔をはじめて見た。仲間がいる中で、笑顔を見せる場面もあるかと思ったその場所で、国松の厳しい表情しか見ることはできなかった。ただそれは生真面目に、自分自身と真剣に向き合うという、国松の生き様が存在していた。その生き様にただ圧倒されてしまったのである。

 そこには試合前に国松を和ませるという、そんな久恵の感覚では入り込めない世界があった。国松の修行僧のような人間像を根底から理解しなければ、彼の心は開くことはできない。否定、悲観などに自ら立ち向かい、それを自らの力で解決していく。自分を苦しめ、更に先に進んでいく。そんな感覚は、今の日本では余程でなければ感じることはできないし、理解もすることは無理なのであろう。世間が言うマトモなどという感覚ではないのかもしれない。良し悪しではない。自分がどのように納得するかだけである。他人に左右されることによって揺れ動くのであれば、それは自らの意思ではない。そんな事で答えが見つかることはない。だからこそ国松は自らのためだけに行動をしているのであろう。

 そう考えている久恵に、昨日泣きはらした顔はもうなかった。ただ涙が出るくらいに感情があることを久恵は、人間として良かったと考えていた。それを気持ちの中に落としこむと、久恵は思わず微笑みを漏らした。

 そんな時、ジムの扉が開いた。ジムを開く時間がもうすぐという事で、たまたま外に出てきた源であった。

「あれ、昨日のお嬢ちゃんじゃないか。どうしたんだい」 

 ジムの方へと向いていた久恵を見て、思わず源は言葉を出した。

「あっ、たまたま歩いている間にここに来てしまって……

 特に用という訳ではないのですが……」

 突然の出来事に、何を答えて良いか解らずに久恵は慌てるようにして答えた。しかし落ち着きを取り戻すようにして

「昨日はおじゃましてすみませんでした」

 と源に対してきちんと頭を下げた。ボクシングの世界に、何も関係を持たない自分が、ただ国松に会いたいだけで入り込んだ。そんな自分に、罪悪感を覚えていた。

「お邪魔という事はないよ。もし良かったら立ち話も何だから中に入らないかい」

 源はそんな久恵の真意を解らずに、彼女をジムの中へと誘った。

「でも……」

 そんな事を言った時、ポツポツと雨が落ちてきた。

「ほら、取り敢えず」

 即すような源に、軽く会釈をして久恵は従った。

 未だ誰もきていないジムの中に、久恵は身を移し、昨日とは違う雰囲気の空間を肌で感じていた。昨日とは異なり圧迫感がないせいか、何となく気持ちが落ち着いた。それにジムの中は思った程の汗などの匂いはしないことにも気がついた。

「昨日はどうだったんだ、国松と一緒に帰って」

 源は試合前で、あまり国松に近づいて欲しくはない。久恵は源の言葉をそう受け取った。

「もう会わない方がいいと言われました。

 だから今日ここに来てしまったのも申し訳なくて……」

 源はそんな言葉を聞いてため息を漏らした。

「そうか、あいつがそんな事をね……。

 確かに試合前だから、ボクシング以外の事で気を使いたくないのもわかる。

 けれどもあいつは、あまりにも自分に対して厳しく、それ故に人に対しても厳しい。

若い頃に横着をしていたのも、やりきれない気持ちと、人の愛情をあまり感じていない気持ちがあったからなのだろう」

 源は、少し久恵との距離を取るように歩き、リングの端に尻を軽くのせた。

「お嬢ちゃんが昨日来た時に、何となく国松が愛情を感じてくれる、受け入れてくれるのではないかと、ちょっと期待したんだ。

 ボクサーは引退してからの人生の方が長い。そんな時に人との接触を避けて生きることはできない。

 試合前でも、あいつの中で何かが変わるきっかけができるのではないかと思ったんだがな……」

 ジムに来ても国松は、源や福田以外の人とあまり話をすることがない。数名のプロ選手たちと接してもほとんどがボクシングの事だけである。数年後、国松がボクシングを辞めた時、その時にどのようになってしまうのか……源の心配はそこにあった。だからこそ、たまたまかもしれないが訪れた久恵に、それを変える力があるかもと望んでいたのかもしれない。本来であれば試合のことのみを考えなければならない自らの立場を考えると、甘さがあると言われても仕方がないことを理解した上での行動であった。

「私が松崎さんを変えることができると思われたのですか」

 久恵は自信なさそうに答えた。

「まあ、試合前のあいつがどのような接しかたをできるかもわからない。しかもあなたに取っては、普通の男を扱うよりも大変なことかもしれない。

 無理ならばそんな事をしてもらわなくてもいいが、何となく国松が変わるきっかけになればと思ったんだ」 

 勝手に自らの望みばかりを言った源が、少しだけ申し訳なさそうな表情を見せた。愛情を受け入れた時、国松のボクシングがどのように変わるのか……吉と出るか凶と出るか……少なからずそんな算段もあった。

「私にできるのでしょうか。

ただ一方的に好きになって、一方的に迫ることしかできずに、挙句の果てには、会わない方がいいと言われた私に……」

 変わらず自信なさ気に久恵は言葉を発した。

「さあ、そこまで人の心を読むことはできない。

しかし、もしもあなたに覚悟があり、少しでも国松の心に踏むこむことができるのであれば、お願いしたい」

 源は自分が何を言っているのか、しっかりと理解していた。試合前のボクサーに取って本来であれば、あり得ない事を頼んでいる。しかも悩みを持って調整が上手くいかなかった時の事も理解しているつもりであった。だが国松が変わるタイミングがあるとしたら、今しかないと思っていた。

「分かりました。私のわがままもあるでしょうが、もう一度、松崎さんと話をしてみたいと思います」

 久恵は笑顔で、その覚悟を源へと伝えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ