1998年8月17日(月) (3)
(三)
むさ苦しく顔半分近く生えている髭を蓄えた国松は、試合後しばらくしたらアルバイトに復帰する事を伝え、ジムへと向かって走り出した。
その頃、岡橋と別れた久恵はジムへと向かってゆっくりと歩き出していた。
今日、松崎国松と会えるという喜びを、軽やかな足取りで噛みしめるような感覚であった。空は曇りではあるが、辺りがそれ以上に明るく感じられる気がしているのは、そのような気持ちの現れであろう。
久恵の松崎国松に対する気持ちは、自然に盛り上がってきていた。試合を控えているボクサーに対して、そんな気持ちを伝えることはやってはいけないことかもしれないが、久恵は自らの気持ちを封印することはできなかった。
どうしても気持ちが抑えられない。それは松崎国松という人物に、自分が吸い寄せられていくような感じを受けていたからであった。
源ジムの中で、報道陣たちは一階のリングの脇にすでに陣取っていた。カメラの配置も、自分たちの段取りも充分に出来上がっているようである。
今日は公開練習の日である。
報道陣の以外にも、ゴンザレスのトレーナーであるアルバニット・カーキの姿もあった。
そんな中、ジムの扉が開いた。
「記者の方ですか」
近くにいた平野が対応する。
「いえ、松崎さんに呼ばれて見学にきたのですが……」
怯えるようにして開いたジムの中には、思ったよりも人が多かった。そんな場違いな状態を目にして久恵は辺りを見渡すようにして答えた。
「これから公開スパーリングがあるので、一般の方はお断りしているんですよ」
平野が声を掛けた時であった。源がふと近づいてきた。
「平野、どうした」
健康ブームに乗った入会希望者なのかと源は思ったが、何故か久恵を見た時に声をかけてしまった。
「いや、松崎さんに呼ばれて見学に来たと言うのですが、一般の方なので、断ろうとしていたところです」
源はぶっきらぼうな表情のまま、久恵へと近づいた。入会希望者ではなく、国松に呼ばれてという言葉が気になった。
「申し訳ないね、今日は松崎の公開スパーリングなので報道陣などが殆どで、見学はできない状態なんだよ」
気にはなったがこの状況で見学という事もないだろうと、源は断った。
「その、松崎さんに今日来て、と言われて来たのですが、それでも駄目ですか」
源は食い下がってくる久恵を今一度見た。国松の関わりのある人は女だけではなく、男でさえもジムへと訪れたことは今まで一度もない。それを思うと少しだけ考えてしまった。
「今日来てくれと言われたのかい」
国松にも何か考えがあるのかもしれない。そんな思いで源は久恵に問いかけた。
「はい、今日のこの時間に来てくれと……ただ、私報道陣までいるとは思わなかったのですが……」
久恵は少しだけ、縮こむようにして答えた。
「お嬢さん、国松とは元々知り合いなのかい」
「いえこの間、松崎さんに助けてもらいました。その時に松崎さんの事が気になってしまって、もう一度お会いしたいと話をしたら、今日ジムにという話でした。
それなので知り合いと言われると……」
源は鼻で返事をした。しかし国松が今日呼んだ事も含めて何かあるのかもしれない。それを思うと、なぜか久恵を邪険に追い返すことができなかった。それ以外にも源は何か気持ちの中で久恵の存在を感じる事があった。そして久恵を受け入れることを承諾した。
「そうかい、取り敢えず端っこの方で見ていてくれるならいいよ」
そう言うと、久恵をジムの中へと案内した。
「ありがとうございます」
久恵は思わず頭を下げた。そして源に案内された報道陣の一番後ろへと移動した。
源が端を進めたのは、国松がどのような間柄かわからない久恵を見て、公開スパーリングに影響が出ないようにという配慮でもあった。
そうこうしているうちに、国松はいつもと変わらずに走ってジムへと入ってきた。久恵の存在には気付かずに、そのまますぐに荷物を置いて、スパーリングの準備をする。
「来てすぐ始めるなんて、大丈夫なんですかね」
そう他の記者へと問いかけたのは明らかに新米記者なのだろう。国松がいつものように走ってジムに来て、すぐにスパーリングをすることを知らないのだった。
「松崎選手はいつも走ってきて、そのままスパーリングをするんだよ」
質問をされた先輩記者が新米記者の問いに答える。
「そうなんですか」
「そう、試合前の練習の時はいつもそうなんだ」
記者が言っているように、いやそうではなく普段の練習から国松は変わらずに走って来たものであった。
そんな戦闘モードの国松の姿を見て、久恵は胸を痛めた。真剣だからだろうが、この間会った時よりも表情は険しい。だが身体から男らしさを発散しているよう見えた。
源が国松へと近づき、ヘッドギアを着けた。顔の四割程がそれによって消えていく。そして一六オンスのグローブを着けて国松はリングへと上がった。
高い音のゴングと共に、公開スパーリングは始められた。
二ラウンドという事で、今までのスパーリングパートナーではなく、日本フェザー級四位にランクされている平井薫が相手であった。軽くやるつもりではないが、疲労も多い時期なので、国松は問題がないという話であったが、下の階級の選手が選ばれた。
取材に来ていた橘は、ゴンザレスの公開スパーリングとは異なり、本当に軽く行われるものであろうと二人の違いを感じていた。
リング中央で二人のグローブが合わせられる。挨拶代わりなのであろう。試合でもよく見られる光景であるが、国松は逆に試合の時にはこの行為を行わなかった。これから本気で戦う相手に対して、気を使う意味が解らなかったからだ。
国松はベタ足の、ゆっくりとしたクラウチングスタイルを取った。そして軽く、一発二発、ジャブを繰り出す。
平井はパンチを良く見て、その拳をグローブで止めた。ストッピングという防御技術である。そのまま避けた勢いを使い、左ジャブを出す。それが国松の顔面を捕らえると、その勢いのまま後続打を数発繰り出す。
国松は表情を一つも変えずに、頭を振るようにして後続打をかわし、中へと入ろうとするが、まだ本気ではないのか、出入りのスピードは早いと感じられなかった。
平井はステップを使い、国松との距離を離してかわしていく。
アルバニット・カーキは、今程度のスピードのウィービング(頭を振ってパンチをかわす技術)であれば、ゴンザレスのジャブは的確にヒットできると感じていた。だが前回の試合の時はもっと早かったはずであると記憶を呼び戻し、試合の参考にはしなかった。あくまでも公開練習であり、今回のゴンザレスとは異なり、全てを晒さない選手がいることも十分承知していたからだ。
平井はステップを使いながら、左ジャブを何発か繰り出し、国松の右側へと回っていく。そのパンチは、がっしりとした国松の両腕に遮られてヒットすることはなかった。
国松は徐々に眼に力を入れ始めた。目覚めたという訳ではないが、少しずつ相手を調子に乗せないように圧力をかけている、という思いが込められていると福田は感じていた。
そんな気迫に気圧されたのだろうか、平井は自ら動くのではなく、動かされていった。プレッシャーを更に強めた国松は、平井をロープへと追いやっていく。平井は背中に感じたロープの存在によってそれを実感したが、その後の対応はできなかった。
国松の低い位置から、右足の蹴りを使い、飛ぶように上昇しながら放たれた左フックが、平井の顎を捕らえた。
「効いた」
平井は心の中で思いながら、この状況を変えなければと考える。しかし一発のパンチで膝が言うことを効かなくなっている。どうしようか、焦れば焦るほど、考えは及ばなかった。最初に当てられたパンチで効いてしまった事で、ヘッドギアが無力にも感じられた。
兎に角逃げることができなければパンチを打つしか方法は無い。軽いパンチであっても数発の連打で押せば、離すことはできるかもしれないと考えたからだ。しかし国松相手にそれは通用しなかった。
ガードを高く上げ、身体の力でその場に踏みとどまりながら、国松は正確なパンチを肝臓へ、顔面へと続けた。
「階級が上とはいえ、何というパンチ力なんだろう」
平井はそんな事を思い、耐えられずにキャンバスへと倒れた。
報道陣たちから、驚きの声が漏れた。ダウンも去ることながら、追い込むタイミングといい、身体の力といい、正確にパンチを当てる事といい、いくら平井が下の階級の選手であっても、いとも簡単にそれを行ったことに対してである。平井は偶然で上がってきた選手ではない。アマチュアで国体優勝をして、プロでも実力をいかんなく発揮してきた選手である。そんな選手をいとも簡単に倒してしまうとは……。
「松崎の仕上がりはかなりいいぞ」
ある記者が思わず声を上げた。橘もそう感じていた。昨日のスパーリングといい、今日の出来といい、先ほど見てきたゴンザレスに善戦する事を脳裏に思い描いてしまう。
「おい平野、準備しておけ」
福田はすぐに平野にスパーリングの準備をさせた。このラウンドが終わったら平井は終わりにしよう。ダメージなどを含め、そう考えたからである。
案の定、平井はこのまま続けてもしかたがないくらいに打ちひしがれていた。力の差をここまで感じることは、戦意喪失に繋がった。
そんなこともあり、残りの一ラウンドは、平野が相手をすることとなった。ライト級とミドル級では明らかに体格差はあったが、国松は低い姿勢から平野と撃ちあった。平野は国松が世界タイトル直前ということを度外視して、気持ちで応じるように撃ちあった。しかし命中率という点では、圧倒的に国松が多かった。
それにしてもこいつは強くなったもんだ。国松は一度、平野のパンチを顔面に受けた時に、その力強さを感じ、なぜか嬉しくなってしまった。
平野とのスパーリングは結局二ラウンド行われた。
その後軽い練習を記者たちに公開して、国松はシャワーを浴びた。
これから行われる記者会見に備えてである。それでも帰りに走る予定の国松は着替えてもジャージ姿であった。その国松に記者たちは質問を投げかける。
「前回、あのような結果でしたが、今回はどのような戦い方をする予定ですか」
「さあ、いつもと同じように戦うだけです。他のことはできませんから……。
ただ全力で行くだけです」
そんな中、小声で新米記者は何度も国松を見ている先輩記者へと尋ねた。
「試合と違って、巧さもあるのに、どうして松崎は打ち合いをするのですか」
確かに今回のスパーリングでは巧さも見せる場面があっただけに、不思議そうに首を捻るように新米記者は聞いてきた。そんな横顔をちらっと見て先輩記者は答える。
「彼はリングに上がるとアレ以外できないみたいだな。今までもそうだからな。四角いリングの中では冷静ではいられないのかもな」
簡単過ぎる答えに新米記者は、フーンと頷き、言葉を出した。
「じゃあ冷静でいられれば、松崎選手はもっと強いという事ですか」
「さあな、圧倒的なパンチ力だから、巧さではそこが消えてしまうかもしれない。だからどちらとも言えないだろうな」
考えてから先輩記者が答えていると、他の質問が飛んだ。
「松崎選手の場合、決着はやはりKOでしょうか」
「さあ、それはやってみないとわからないですからね。
取りあえず判定でもいいので勝ちたいだけですね」
「それだけベルトに対する執着はあるという事でしょうか」
「勿論あります。このジムに世界チャンピオンベルトを飾りたいですしね。
でもそれ以上に、前回の結果を覆したい、という気持ちが自分の中にあります」
そんなありきたりの質問が繰り返される。
前回の世界戦の前と違うことは、再戦という意味が含まれているくらいであろう。源や福田がいなければこんな面倒な記者会見などは受けたくなかった。しかし興行の世界では仕方がないことは、九年のプロ生活で理解しているつもりであった。だから国松は表情に出さずに、淡々と質問に答えていった。
「リングに上がる国松を見て、どう思ったんだい」
源はジムの隅にいる、ボクシングジムの雰囲気とは場違いな久恵に近づいて尋ねた。久恵の視線は国松に釘付けであった。自らが映ることなどはないテレビカメラにとらえられている国松は、精悍そのものに見えた。
「ボクシングのことは知りませんが、生き生きしていると感じました。
ここが自分の場所だって主張している。そんな感じです」
何だか自らの居場所が就職活動という中で、確定していない久恵に、国松は羨ましいほど輝いて見えた。
「自分の居場所か、確かにな……。
あいつはここに辿り着くまでに、居場所が無かったからかもしれないな……」
源がジムに着始めた頃の、横着で強さにしか固着しなかった国松を回想した。そんな国松の気持ちを救ったのはボクシングという、戦いのリングだったのかもしれない。そんな事を感じて、頭を掻いた。
「取り敢えず、記者たちが帰った後にでも国松と話をしたらいい。
それまでもう少し待っていてもらえるかな」
「はい、ありがとうございます」
源はそのまま笑顔で答えた久恵から離れ、ジムの練習生たちの相手をするために靴の紐を結び直した。
しばらくすると記者たちは去り、やっと国松は久恵の存在に気がついた。自分から呼んでおいて失礼な話しであるが、ふと視線があった時に、国松はそれを離した。ジムに居ると眼光が鋭くなってしまう。そんな自らの表情を見せたくないと、無意識に思ったからだ。
「国松、お嬢さんがお待ちだ。帰る支度をしてこい」
思わず言われた言葉に、国松は首を縦に振って答え、ロッカーへと帰る準備をしに行った。
「あいつも、人に会うならもう少しまともな格好をすりゃあいいのに」
伸び放題の髪と髭を考えて源は言った。
「そんな事ないですよ。外見だけで、中身のない人はいっぱいいます。一つでも夢を持っている人は、どのような服装でも格好良いと思います。
しかも夢を見ることは誰でもできますが、それを形にできる人は多くないと思います。
松崎さんは自分の夢を、今回の試合で叶えようとしているのですよね。そこにたどり着くことのできるエネルギーは、その人の魅力だと思うのです。
だから見た目とかではなく、松崎さんの真剣な姿は本当に素敵だと思いました」
久恵の眼が熱を帯びている。源はそんな事を感じた。
試合前のプロボクサーに、女はご法度といわれる。源も同じ意見であった。しかし今まで見てきた、愛情をあまり感じない国松においては、それによって何かをもたらす事があるかもしれない。
源は直感的にそう感じていた。初対面の源に対して、しっかりとした自らの意見を言える。国松に対してもそうなのであれば、今までの国松にありえなかった感情が宿ることによって、何かが産まれるかもしれない。そんな期待を込めていた。
国松は源と久恵がそんな話をしていることは知らずに、ロッカールームにある体重計に乗った。しっかりと体重が減っていることが確認できる。試合の正式計量まであと三日。ここ数日、飲まず食わずに近い生活をしていることもあってか、リミットまであと一キログラムというところまで辿り着いた。だが、あと一キログラムが、されど一キログラムになりかねない。削ってきた身体が後どれくらいまで持ち、再度削ることができるのか、それだけが気がかりであった。
「なあ慎二、どう思う」
「何がですか」
ふと源に話を振られたが、それが何に対しての言葉かわからずに、福田はきょとんとした表情で言葉を返した。
「いや、あのお嬢さんのことなんだが……」
勝手に源が思っている感情を読み取れずに、福田は更に困惑した表情を浮かべた。
「試合前だが、何となくあのお嬢さんを国松に近づけたらどうなると思う」
「あの子ですか、どうなんですかね」
福田は、自分の思った事を、中にしまわずに、他人の意見を取り入れて考えようとする源の事を考えた。多分、現役時代も、色々な考えを取り入れて自らのボクシングを構築していったのだろう。だからあれだけの戦歴を勝ち進んできたと、改めて感心をしてしまった。
「何となく、国松の感情を揺さぶり起こしてくれそうな気がするんだ。国松が今まで持っていなかった感情を受け入れた時に、どうなるか見てみたいと思わないか」
源は思わず、今までの好戦的だけではない国松が生まれるのではないか、との期待を持って言った。
「確かに国松は不器用なまでに愚直ですからね。違う感覚が入った時にどのようになるか、私には想像がつきません。けれどもボクシングだけを考えずに、今後のあいつの人生を考えたら、ありかも知れないと思いますよ」
福田は試合のみならず、ボクサーの人生は引退してからの方が長い。それも含めて源へと答えた。
「吉と出るか、凶と出るか……ちょっといじってみるか」
源は世界タイトルマッチという大一番の前でありながら、福田の元を離れて体重計から降りた国松の元へと歩を進めた。
「おい国松、お前に会いに来たお嬢さんがいるから、一緒に帰ってやりな」
源に言われて、先ほど視線の合った久恵の事を、国松は考えずにはいられなかった。
佇むように、静かな路地を、バックを背負ったジャージ姿の国松と、久恵が歩いている。
特に話をする訳ではない。無口な男の背中を追いかけるように女が追っている。ただそれだけであった。
ふと国松は歩みを止めた。そして覚悟するように前方を向いたまま言葉を出した。
「ジムで俺の顔を見たかい」
唐突な言葉に、久恵も足を止めて答えた。
「はい、凄く真剣な表情でビックリしました。やっぱり試合前なのだなと思うくらいに緊張感がありました」
久恵の声は少し沈んだような国松の声とは異なり、嬉しさに満ちていた。
「そうか、なら早い。俺はボクシングにしか目が向かない。あれは試合前とか後とか関係なく、俺の素の姿だ。
君が俺に興味があるとか言っていたが、俺は無い。
今は世界戦のことだけを考えたいんだ」
一方的な国松の物言いは、少し飛躍しているように感じられた。久恵を避けようとしているようにしか思えない。国松自身は、ある種久恵の存在が恐怖であった。今まで久恵のような存在が近寄ってくることのなかった。それが、ふいに目の前に現れたのである。戸惑いがない事の方が不思議なくらいであった。
「これ以上なんかなくてもいいです。私は松崎さんのことが気になります。もっと色々なことが知りたいです」
少しだけ国松に歩み寄るように、久恵は気持ちを込めて言った。
「要らないんだ」
国松は遮るように、語気を強めて言った
「俺は今まで、愛だとか何だとか、訳のわからない感情に左右されないで生きてきたんだ。この世に対する怒りと憎しみで生きてきたんだ。そこに女とか男とか、訳のわからないものは要らないんだ。
俺は自分の事だけで精一杯なんだ。悪いけれども、もう二度と会いにこないでくれ」
その言葉を聞いて久恵は自分の感情が、はっきりと見えてきた。やはり国松に対して好意を持っている。しかし国松は、愛情などは要らないという。自分が存在しないで欲しいと言っているのである。下を向き、胸が痛くなり、目に溢れそうになってくる涙を実感した。
国松はそんな久恵を振り返り見て、少し心が苦しくなった。それと共に恐怖が自分を支配していくような気がしていた。
二つの感情が自分の中の支配権を争うように戦っている。どちらにしても逃げなくてはならない。この場から一秒でも早く。そんなリングの上で感じたことのない脅迫観念にとらわれた。その感覚は一歩、そしてまた一歩と国松の足を進めた。
「松崎さん」
その背中に向かい、立ち止まったままの久恵の甲高い声聞こえた。それは国松の歩みを止めた。
心が苦しい。今までにない国松の中の感情が、再び姿を現そうとしている。虫唾が走ったのか、国松は唇を強く噛んだ。味わったことのない感情を、早く消し去りたかったが、足が止まり、進むことができなくなってしまった。
「好きになった男の人が、そんな人じゃいけないのですか……。
自分が好きな物に対して、真剣に向かい合っている人じゃいけないのですか……」
後半の言葉は涙声になっていた。涙を流すなんていう行為自体、国松からしてみたら反則のようでありえないものであった。飛び道具を使っているとしか感じられないのである。だから感情なんて不確定なものは嫌いなんだ。国松は心の中で唱えながら、憎悪が膨れるような気がした。違う見方をしたら恐れている感情を、それで必死に打ち消そうとしているように見えなくはなかった。
「必死に孤独でも何でも、自分に正直で、夢を追いかける人を好きになっては駄目なんですか……」
久恵の強い言葉であった。その一言一言が国松にとっては苦しいものであった。
久恵は国松を、その背中を強い視線で見守っていた。
「ゴメン。俺は俺のままでしか生きられないんだ」
小さく呟いた国松の言葉が久恵の耳に入った時に、国松は思わず逃げるようにして、自分を留めていた感情を振り切るようにして走り出した。
久恵は涙で見えにくい視界の中で、国松がいなくなった方を見て動くことができなかった。暗い路地に久恵の涙が、一粒、また一粒と落ちた。それと共に、ポツリポツリと雨が落ちてきた。強くはない、しっとりとした、そんな雨であった。
国松はいつもの公園へと滑り込んだ。主がいる時間でも、自分が普段来る時間でもない。
「今の俺のままじゃ。あんな気持ちを受け入れられるわけないだろう」
自分に対して、思わず言葉を吐いた。それは弱虫な自分へ、恐怖から逃げようとしている自分への向けられた言葉であった。
衝動的に背中の鞄を放り出し、国松はシャドー・ボクシングを始めた。しかし、それはボクシングというよりも、感情を制御できずに、ただ暴れる子供のようなものでしかなかった。




