1998年8月17日(月) (2)
(二)
碑勇次は、夕刻になる前の街を走っていた。いつも仕事で練習ができない分は、休みの日に埋め合わせるようにしていた。
試合まであと四日。
体重はリミットまであと五〇〇グラム程度である。思ったよりも順調であるし、このままいけば減量というリングに上がる第一段階は失敗をすることはない。それを思うと早くリングへと上がる瞬間がこないかと、興奮が碑の感情を支配していく。
それと共にアスファルトを踏みつける足取りは速くなっていく。高まっていく気持ちに大きく左右されていく。気持ちに左右されることは悪くはない。今は冷静さよりも、勢いに任せる方が上手くいくと碑は考えていた。
信号で止まるたびにシャドー・ボクシングを軽やかにやってみせる。手が疲れていないからなのか、その左ジャブは速い。それを見る人たちは、野蛮と思うのだろうか、それとも格好良いと思うのか、他人の気持ちはわからない。ただ碑は、そんな事よりも自らが必死になり、物事に取り組み、それを楽しんでいるという事に満足感を覚えていた。
碑がボクシングを始めるきっかけになったのは、高校時代の友人に誘われ、プロの試合会場に足を運び、実際にボクシングを見る機会があった事がはじまりである。その後、深夜の放送を見たりすることもあり、いつしかボクシングをできればと考えていた。
そんな思いの中、社会人になり、日常生活にストレスを感じはじめ、それを発散するために何かをやりたいという時に、ボクシングという物が目の前にあったからだけであろう。人生の中でやりたい事は、結構見つかるものである。見つからない人間は物を見ようとしないからだと思えるくらい簡単にそれは目の前にあった。当時好きな世界チャンピオンがいた事も、後押しの理由になったことは間違いない。
多くの人たちが、自分の中で自分を証明できずに苦しんでいる。ホテルに勤めている碑はそう考えていた。もちろん確立できる人もいるのだろうが、自分はそれができなかった。
しかし個人スポーツであるボクシングは違った。強かろうと弱かろうと、自らの存在をしっかりと確認して、足りない部分を確立するために努力することができる。それは魅力であった。しかもプロの資格を取得した事によって、人に褒められたりする以上に、自らが納得できたことは、人生において大切な事であると思っていた。
信号が変わると碑は、そんな気持ちを封印するように走り始めていた。
カルロス・ゴンザレスの公開練習は、今日行われた。残りの四日という期間は、調整に当てられ、疲れを抜くような軽い練習と減量にのみ当てられるとマネージャーのハルパーンは語った。そんな事もあってか、その日のスパーリングは集大成という事もあり、激しいものであった。
どんな選手であろうと、公開練習の日のスパーリングは四、五ラウンドという数を、四回戦やそれなりの選手、良くて日本ランカークラスとこなすことが多い。せっかくの試合を怪我などで流すことも考えられるし、報道陣の前で手の内を明かすことを嫌がるなどの配慮からであった。
しかしゴンザレスは、今回ばかりは緊張感を無くしたくないために、昨日と同じく、東洋ミドル級のチャンピオンらを相手に、もう六ラウンドのスパーリングを消化していた。
東洋チャンピオンは今のままでは気が済まなかった。階級の差も去ることながら、何とかして自らの存在をアピールしたかった。
だからなのか、突進する速さは昨日よりも数段上に感じられた。しかし中に入ろうとしても距離を保つゴンザレスの足は止まらない。その上、ジャブをしっかりと使い、相手に付け入る隙を作らせない。動きは華麗さと共に、力強さをも感じさせる。
ジャブが当たる距離に東洋チャンピオンが入り込んだ瞬間、左フックから、左アッパーのコンビネーションが当たる。長い距離でのその種のパンチは、日本人がなかなか打てないパンチである。それをゴンザレスはいとも簡単にやってのける。
その後も、スパーリングパートナーをラウンド毎に変えながら、異例とも思える一二ラウンドのスパーリングをこなした。
前回の結果に納得できないというだけで、これだけの事をやってしまうのだから、ボクシングのみで生活ができない日本のボクサーとは異なり、違った意味でのプロという意識を感じざるを得ない。
公開練習の後に、記者たちは少しだけゴンザレスに取材をする時間が取られていた。
「松崎との再戦はどのようになると思いますか」
橘は真っ先に言葉を出した。
「さあ、展開はどのようになるかわかりませんが、前回とは異なり、はっきりとした形で私が勝ちますよ」
強気のゴンザレスの言葉であった。まあ、最初から負ける気でいる選手などはいないから、それが当たり前といえばそれまでであるが、自信に満ちあふれている目は力強かった。
一二連続防衛中の中で、一番苦戦した松崎との再戦である。天才肌で、二二歳の時にタイトルを獲得し、勢いもあったゴンザレスを停滞させたのは、紛れも無く東洋の無名ボクサーである国松であった。その国松を相手に負けはしなかったものの、評価は落ちた。日本の無名ボクサーが相手であったから尚更だったのだろう。プライドが更に彼の言葉を強くしていった。
「松崎戦で注意する点は」
「彼のパンチ力でしょう。しかし当てさせない努力はしてきました」
淡々とした口調は、やはり自信からくるものである。
「彼を捕らえるとしたら、どのパンチですか」
「どのパンチでもいいと思います。私のパンチは強い。彼は最後まで立っていることは不可能でしょう」
簡単な質疑応答が繰り返されていく。ゴンザレスにしてみれば少しうんざりする場面もあった。
「松崎、待っていろよ。前回の雪辱は絶対に晴らすからな」
勝者であったはずなのに、ゴンザレスのプライドは満たされていなかった。そんな気持ちが、当日に放映する局のカメラに向かい、今までやらなかったパフォーマンスを行わせた。そして右拳を突き出した。
「どちらにせよ、松崎が勝つことはないでしょう」
取材を締めくくるようにハルパーンが入り込んだ。それを合図にするようにゴンザレスは取材陣の前からロッカーへと引き上げて行ってしまった。
橘は、いかにも男というようなゴツく厚い手で、手帳に先ほどまで見てきたゴンザレスのスパーリングの事を書き記していた。
電車の中の冷房は心地良いが、くもりの天気があまり良い気にはさせなかった。
フリーのボクシングライターになり、早くも三年という歳月が経過しようとしていた。新聞社などにも記事を書いている橘は、四日後の世界ライト級タイトルマッチの前記事の一部を作っていたのだ。
ゴンザレスの驚愕するようなスパーリングを見て、興奮しているところもあったのだろう。
本来であれば、試合四日前の今日、今までの練習で追い込んできたことによる疲労はピークを迎えているはずであった。多くのボクサーが、公開スパーリングの時には、軽めの手の内を見せないようなものにするのである。たまに仕上がりが悪いと見せかけるような選手もいるくらいである。
だがゴンザレスは違っていた。もちろん明日から疲労を取るような調整をするのだろうが、あれだけのスパーリングをこの時期にできるのである。疲労が抜けたらばもっと動けるはずである。それを考えると国松が余程状態を良くするどころか、いつも以上の力を発揮しなければ勝ち目はないと思う。それが橘の見立てであった。
「前回みたいには行かないかもしれないな」
ポツリと橘は漏らして手帳を閉じた。
国松の心配をする中で、橘はリングに上がる事ができる、しかも世界タイトルマッチという大舞台で戦うことができるボクサーを羨ましいと思っていた。
橘はふと、高校時代の自分を思い出していた。
インターハイ、国体と三年生の時に優勝をしたリングを、である。
その後、世界チャンピオンを目指すために上京して、プロの道へ進む予定であった。早々とジムを決めて、ライセンスを取得するという時であった。橘がプロへと進むことを阻む出来事があった。CTの検査である。プロになる場合の身体検査で脳の間に隙間があると、事故が起きやすくなるという理由でライセンスは発行されないのである。橘に取って思い画いていた将来が消え、絶望という言葉しか出てこない出来事であった。
しかしアマチュアでオリンピックを目指すことはできる。大学でボクシングを続けることを決意したが、その時には情熱は縮小していた。ここぞというところで勝利を得られずに、橘のボクサーとしての夢は絶たれた。
それでもやはりボクシングを忘れることはできなかった。どこかで ボクシングに近い場所に居たい、それがボクシングライターになった理由である。
「国松に取っては世界タイトル、ゴンザレスに取っては雪辱か」
駅を出て喫煙所へと入り、白い煙を宙へと飛ばして、橘はため息をついた。なぜか自分がプロになれなかった感傷をそこに預けた気がした。
そんな時、ふと昔の一人のボクサーを思い出した。
それは松崎国松という選手の事であった。
もうすぐ世界タイトルマッチを行う事になっている。しかもこれから公開スパーリングを見に行くボクサーと同じ名前の、一九六〇年代半ばに活躍したボクサーの事である。
現在の国松と異なることは、昔の国松が本名であり、今の国松がリングネームであり、本名が澄雄という事だけであった。
そんな過去の国松のボクシングは、現国松とは異なり、華麗としか言いようのない物であった。
左ジャブでしっかりと距離を測り、続く右ストレートを素直に真っ直ぐ出す。足も使え、内外どちらでも戦える。万能形と呼べるボクサーだった。そんなボクシングで日本、東洋ライト級のチャンピオンベルトを腰に巻いた。
決しておごる事なく、自らの信念を貫いた姿は、過去の日本人の美徳を感じさせる。
今、現在の国松というボクサーも、自分なりのボクシングを完成させて、信念を貫いている。しかし喧嘩ボクシングのような典型的な日本的ボクシングをしている。
攻撃力という面では、世界フライ級、バンタム級の二階級を制したファイティング原田なども突貫ファイターのように思われるが、実はディフェンスなども良く、その上で手数が出るボクシングであった。だからこそ世界の頂点へと登りつめたのである。
それを考えると、果たして攻撃一辺倒の現国松が、世界タイトルを取ることができるのか……橘に取っては不安材料でしかなかった。
しかし減量のきつい国松が、調整に失敗しないで、本調子まで持っていければ勝機はあるのかもしれない。だが、過去の国松のようなプラスアルファがもう一つでもあればと、確率はもっと上がるはずである。
改めて白い煙を吐き出した橘は、煙草を灰皿へともみ消し、源ジムへと向かって歩き始めた。




