1998年8月17日(月) (1)
(一)
曇空でありながらも、気温は高かった。天気予報では最高気温が三五度近くになるという報道があったくらいである。
しかし国松はそんな事は気にしなかった。いつもと同じようにロードワークをこなしていく。ボクシングのみならず、運動の基本になっている足腰の鍛錬を、当たり前のように淡々とこなしていくだけである。
一定のリズムで刻む足音は、日々の成果というものなのか、国松の日常ならでは、という感じである。
そしていつもの主のいない公園に入り、何度となく影として思い描いているカルロス・ゴンザレスの姿を追う。そのゴンザレスのイメージは試合が近づくにつれ、完全な姿を現してきている。その姿を捕らえるべく、国松はシャドー・ボクシングをするが、今のスタイルとは異なり、試合になればファイターの姿になる。そのために、この練習が果たして試合に活きるのかどうか、それは国松にもわからない事であった。
岡橋は学校を出る自分の隣で嬉しそうな表情をしている久恵が、何とも言えずに羨ましかった。
就職活動で大変な思いをしている岡橋に取って、久恵のような笑顔は未だに出てこない。状況として二人はそれほど変わらないように思えていたので余計に思うところはあった。
「ねぇ、久恵。この後予定ある」
その得体の知れない嬉しさの源が何であるかを知りたくなり、岡橋は久恵を誘った。
「何もないよ。どこか行く」
久恵も自宅に帰って国松に会うまでの時間をのんびりとするよりは、話をしているほうが、ストレスの解消にもなると思い、それに応じた。
「じゃあお茶でもしに行かない」
描いていたシナリオ通りに、この後に久恵の嬉しい表情の原因を聞くことができるかもしれない。しめたという感情を、岡橋は表情に現した。
「そうだね、じゃあ行こう」
二人は意見をまとめると、駅の方角には向かわずに、少しだけ離れるようにしてカフェバーと名のついた店の中へと身を置き換えた。
店内の照明は夜とは異なり明るく、尚且つ外からの光が入り込んでいて、曇りでもそれなりの明るさを感じられた。
昼に酒の提供はしていないようなので、高校生たちの姿もチラホラと見受けられた。来たことはないが、夜には異なる雰囲気になるのだろうと、二人は勝手な想像していた。
珍しく携帯電話で話す男の声が大きく、なぜか雑談をしている人たちとあまり変わらないはずなのに、耳障りに感じられる。誰もそのような物を使用していないから、余計に違和感を覚えるのだろう。
「あのルーズソックスって、やっぱり変だよね」
岡橋が尋ねた。
「まあね、でも話を聞いたら、はじめは太い足首を隠すために始まったらしいよ」
それほど年齢の変わらない女子高生たちを見て、自分たちよりも流行に敏感であると思いながら、久恵は広まった理由を述べた。
「幾つでも女は綺麗になりたいから、仕方ないのかな……。でも私には無理だな」
何となくおばさん臭い話になってしまった。だが決して高校生を莫迦にしているとかの話ではない。個性なのか、周りとの協調なのかわからない主張が、そこに存在するように思えてならなかった。だが久恵はあまりダボダボとしたルーズソックスを好きにはなれなかった。
「それにしても今日は楽しそうだよね。何かあった」
岡橋は久恵に聞きたかった本題を振った。その前の雑談は話を切り出すきっかけでしかなかった。
「ちょっと今日の夕方に人に会う予定なんだ」
少し頬を赤らめるようにして久恵が答えた。
それを見た途端、嬉しさを出した表情は就職活動がうまく進んでいることによるものではなかった事に、岡橋は少しだけ残念に思うと共に、先を行かれなかったことに安堵を覚えた。
「なに、その人と会える事が嬉しいんだ」
岡橋は気持ちを切り替えると遠慮せずに言葉を出した。
「さあ、良いとは思っているけれども、自分の気持ちがイマイチわからないのだよね。好きなのかなぁ……」
気持ちを確定できずにいる自分を確かめるように、久恵は自問自答を含めた感じで首を斜めに傾けた。
「でも好意はあるんだ」
岡橋はすぐに突っ込んだ。野次馬根性が次の久恵の言葉を欲しがっていた。
「そうだね。でも自分が今まで見たことのない世界の人だから……」
久恵の感情に少し不安が産まれる。その世界の人間が何を考えているのか……久恵には理解が及ばなかった。
「何をやっている人なの」
「ボクサーだって」
「ボクサーか、確かに格好良いけど、久恵の感覚には合うのかな……」
運動とは無縁のように思える久恵に、ボクサーという印象は更に結びつかないと岡橋は思った。久恵は笑って考える表情をする岡橋に言葉を返した。
「まだニ度しか会った事がないのだけれどね」
「何それ、一目惚れってこと」
興味津々という感じで岡橋の表情は少しだけ緩んでいるようにも見えた。
「う~ん、自分でもわからないんだよね」
岡橋は久恵の性格を【石橋を叩いて渡る】と思っていただけに、一目惚れ、という思いもよらない一面を見て驚いた。
「へ~」
ただ恋愛話を楽しんでいるだけの岡橋がそこには存在していた。そんな中、久恵は今日、国松に会った時にどのような気持ちになるのか、少しだけ期待と不安を胸に抱えていた。




