1998年8月16日(日) (5)
(五)
碑勇次は仕事を終えた。務めているホテルの夜は、これからという部署もある。しかし自らの部署はもうお終いであり、しっかりと受け持った仕事は終わらせてきていた。
ロッカーへ行くと、着替えをする。他の従業員は普段着に着替えて帰り支度をするが、それとは異なり、碑はトレーニングができるような姿へと着替える。
そんな勇次を良くやるよな、と冷ややかな目で見ている先輩たちがいた。碑からしてみれば、数年長く生きているだけで、彼らのように薄い人生を送ろうとは思っていなかった。
「また走って帰るのかよ」
ロッカーへと入ってきたばかりの仲の良い先輩が、トレーニングウエアに着替えている碑を見て声をかけた。
「はい、今日は練習に行けなかったですから走って帰ります」
「そうか、試合をする訳でもないのに頑張るな」
「一応運動は続けたいと思っていますからね。仕事を理由に太りたくもないですし……」
「そっか、頑張れよ」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
先輩へ頭を下げてから碑はロッカーを後にした。
ホテルの従業員に、碑がボクシングジムに通っていることは知られていた。時にはロッカーでバンデージを巻いてからジムへと向かう姿も見られている。だがプロテストに合格し、試合をする事になっている事は、誰にも話をしていなかった。ホテルの仕事をして客前に出る上で、顔を腫らす訳にはいかないからである。それでも碑は試合をすることにした。試合後はなるようにしかならない。その時に考えればいいと思っていた。
ホテルの社員専用通用口を出ると、湿気のこもった空気が浮遊する。少し不快に思える空気の中を、碑は走りはじめた。
試合まで残されている期間は少なかった。ホテルの不規則な勤務では練習時間もままならない。それでも練習をするしかなかった。だからこそ家までの約五キロだけでも走り、スタミナ向上になればと考えていた。
明日は晴れてくれるのだろうか……。減量の事を考えるとできれば今日のような半端な天気はやめてもらいたい。そんな事を考え、碑は曇る夜空の下を走っていった。




