1998年8月16日(日) (4)
(四)
「ピー」
六畳一間の部屋へと帰り着いた国松は、滅多に録音されることのない留守番電話のメッセージを聞いていた。
「雪藤です。まだ練習でしょうか。また後で連絡させてもらいます」
こんな留守番が三回ほど、約三〇分置きに繰り返されるように入っていた。そして最後の録音から四〇分近くが経っている。しかしジムから帰ってきたばかりの国松は、そんな事には気がつかなかった。
冷蔵庫から、配送中に赤くなったと考えられるトマトを取り出し、水洗いしてから塩をふりかけた。それを一思いに「シャクリ」と音をたてて齧り付く。この位の食事でも、減量中の国松に取っては、噛むという実感と水分を取ることができるという事で満足できた。
減量が苦しい冬場などは、トマト一個でさえも口にすることができない時がある。それに比べれば、夏は嬉しい時期と言える。
ゆっくりとトマトを咀嚼し食べ終えた頃、電話が鳴り始めた。国松の家の電話が鳴るとしたら、ジムとアルバイト先が殆どである。しかしこの時間にそのような場所からかかることはないまずあり得ない。という事は……思わず国松は身構えてしまった。
トマトによって摂取した水分が、緊張によって口の中に広がる。それを思わず飲み込んで、国松は受話器を取った。
「雪藤です」
その言葉に、思わず胸が痛いと感じた。言葉が出てこない。何を発して良いかわからなかった。だから
「ああ」
という返答しかできなかった。
「今まで練習だったんですか」
「ああ、さっき帰ってきた」
国松は、たどたどしく言葉を発した。
「そうだったんですか、疲れているのでしょうが、これからお会いすることはできませんか」
真っ直ぐにくるストレートな久恵の言葉であった。
しばらくの沈黙が受話器を支配した。
今までの国松であれば、あっさりと試合を前提にして断るのであろうが、感情に流されているのか、返答ができない。だが、自分の胸の熱さの理由がわからない国松は、どのように対処して良いのか自分の行動でありながら理解できなかった。
会ってしまったら、今まで無かった感情に自らが支配されてしまう。その上で何が自分に起こるのか、そんな怖さが存在していた。
「会ってもらえませんか」
再び出された久恵の言葉は力のこもったものであった。覚悟をして発した言葉である。
国松はすぐに答えることができなかった。
「タイトルマッチの前だから無理だ」
今までの自分の人生のように、人に対する気持ちがない自分のままであれば、すんなり出てくる台詞であったが、久恵に会ってからなのか、その言葉は出てこなかった。
「明日、ジムでならば」
何とか出てきた言葉はそんな言葉であった。
国松自身も久恵に会いたくない訳ではない。キッパリと断れなかった理由がそこにはあった。しかしその理由の元の感情がわからないのである。自分の中に湧きでた感情を、未だに認めることができずに、否定したかった。
「では明日……」
久恵の言葉を機に、国松は受話器を置いた。そして緊張していた気持ちを開放するように、乱雑に広げられた布団の上へと転がった。
以前ならば、試合の一ヶ月前にもなれば、口数は少なくなり、慣れた者たちでさえも話かけづらくなる。今度も今までと同じようにきていたはずである。しかし、昨日から変わってしまった。雪藤久恵の出現がそうさせたのである。
これがどのような影響を自らに及ぼすのか、国松は心配でもあった。
しかしそんな国松に話しかけ、食いついてくる久恵も久恵であった。お互いが今までにない、自らの行動に、ある種迷っていたのかもしれなかった。




