第9話 死の迷宮と絶対の背中
第1部 第9話:死の迷宮と絶対の背中
六月半ば。
京都・舞鶴には梅雨空が広がり、重く湿った空気が沈殿していた。
救難強化指定を志望する学生は、当初の二十名から十二名にまで削り落とされていた。
入校から二ヶ月半。間大輔に対する「水に慣れるための特別扱い」はとうの昔に終わっていた。特救隊を目指す以上、泳げないという言い訳は一切通用しない。大輔は今、水への恐怖で毎晩のように胃液を吐きながらも、大型犬たちと同じ標準メニューのタイムに、執念と狂気だけでしがみついていた。
屋内水泳訓練場。
水深四メートルのプールの底に、鋼鉄の枠や模擬配管、無数のロープが入り組んだ「障害物区画」が沈められている。
「これより、模擬障害物を用いた閉鎖空間潜水訓練を実施する」
鬼頭教官の眼光が、黒いウェットスーツ姿の学生たちを射抜いた。
「海難現場の沈没船内は、目に見えぬ障害物が貴様らの命を刈り取る死の迷宮だ。装備が絡んだとき、力任せに暴れる奴はタンクの空気を飲み干して死ぬ。異常があれば直ちにバディに知らせろ!」
大輔は、隣に立つ神崎俊平と視線を交わした。
「……大輔、息が浅いぞ」
「うるせえ。ビビってねえよ」
大輔は強がったが、喉の奥には血の味がしていた。水深四メートル。かつて少年を沈めた水底よりも、はるかに深く暗い。
「行くぞ。僕の足を引っ張るなよ」
「お前こそ、俺に置いていかれるな」
二人はレギュレーターを咥え、水面へ飛び込んだ。
水温は生ぬるいが、恐怖で大輔の指先は氷のように冷え切っていた。水深四メートルの障害物区画は、まるで鉄の檻だ。
大輔は俊平の斜め後ろにつき、慎重に配管の隙間をすり抜けていく。
あと少しで、目標の人形に手が届く――その時だった。
ガキンッ!
大輔の背中で、硬質な金属音が響いた。
狭い配管を抜けようとした瞬間、タンクのバルブが頭上の鋼鉄枠に激突したのだ。
直後、ブシューッ!という凄まじい音とともに、背中のシリンダーから大量の気泡が噴き出した。
(エアーが……漏れてる!)
バルブが半開きになったのか、空気が急速に失われていく。
パニックが、大輔の脳髄を白く染め上げた。息ができない。このままでは空気が尽きて死ぬ。あの少年と同じように、プールの底で。
視界が明滅し、恐怖で反射的に手足をバタつかせ、水面へ向かって急浮上しようとした。
だが、その瞬間。
(逃げるな……ッ!!)
大輔は、水中で自らの頬を思いきり殴りつけた。
衝撃で意識が覚醒する。急浮上すれば減圧症になるか、頭上の障害物に激突して終わる。
大輔は暴れる体を強引に制御し、残圧計を確認した。エアーは猛烈な勢いで減っている。
すぐ前方にいた俊平が、異常な気泡の音に気づいて振り返った。
大輔は俊平に向かって手を伸ばし、首を横に振った。
『俺にかまうな、お前はダミーを引け』
ハンドシグナルではない。だが、大輔の目には明らかな意志があった。
大輔は自らシリンダーの後ろへ手を回し、激しく噴き出す気泡の中で、必死にバルブを探り当てようとした。恐怖で指が震える。だが、過去の幻影に殺されるのはもう御免だ。
その時、俊平が大輔の背後に回り込み、大輔の手を弾き飛ばしてバルブを力強く締め直した。
気泡の噴出が止まる。
俊平は即座に大輔の前に回り、自らのオクトパス(予備呼吸器)を差し出した。
大輔はそれを受け取り、深く息を吸い込んだ。肺に空気が満ちる。
俊平の栗色の瞳が、『生きているか』と冷徹に問いかけていた。
大輔は力強く頷き、親指を立てた。
二人はそのままダミーを確保し、規定のルートを通って水面へと浮上した。
ザバァッ!
プールサイドに上がった二人は、肩で荒い息をしていた。
「神崎・間ペア! 課題完了時間は規定ギリギリだ」
見下ろす鬼頭の顔に、称賛の色は微塵もなかった。
「間! なぜタンクを障害物に当てた! 空間把握能力が欠如している証拠だ!」
「……申し訳ありませんッ!」
「だが、パニックを起こさず、自力で対処しようとした意志は認める。神崎! 貴様のサポート速度も悪くない。だが、現場ではあの数秒の遅れが致命傷になる。次はもっと早く気づけ!」
「はいッ!」
容赦のない減点評価。それが、命を扱うプロの世界の絶対基準だった。
鬼頭が去った後、俊平がマスクを外しながら低い声で言った。
「……無茶苦茶だな、君は。エアーが漏れているのに僕を先に行かせようとしたのか」
「バディの足を引っ張るなって、お前が言ったんだろ」
大輔は咳き込みながら笑った。
「僕は『異常があれば知らせろ』と言ったんだ。君が死んだら、僕の成績まで下がるだろうが」
俊平は冷たく吐き捨てたが、その声には以前のような決定的な拒絶はなかった。
「……悪かったな。次は、俺がお前の異常に気づいてやるよ」
「言ったな。僕の背中は、君に預ける」
大輔は、濡れた前髪を掻き上げた。
まだ恐怖はある。未熟さもある。だが、自分の背中を預け、そして相手の背中を守る覚悟だけは、冷たいプールの底で確かに血肉となっていた。




