第10話 実戦とエアポケット
第1部 第10話:実戦とエアポケット
京都・舞鶴特有の穏やかな海面は、一瞬にして牙を剥く。
ジャパウ沿岸警備学校の実習船が若狭湾沖を航行していた午後、ブリッジにけたたましい非常警報が鳴り響いた。この日は、救難強化指定の選抜に残る十二名の候補生も、洋上実習のために主任教官の鬼頭とともに同乗していた。
『――緊急入電! 舞鶴沖、冠島南西二海里付近にて四名乗船の小型プレジャーボートが転覆! 乗船者が海上に投げ出された模様! 最寄りの巡視艇の到着まで、二十分以上! 本船は直ちに現場へ急行、潜水実習生を含む救難態勢をとれ!』
実習服を着ていた大輔たちの空気が、一瞬で凍りついた。
訓練ではない。ダミー人形を相手にするプールでもない。本物の海難、本物の命の危機だ。
無線室から飛び出してきた引率教官が、甲板へ向かって絶叫した。
「救難強化指定班、空気呼吸器およびスキン装備一式を準備しろ! 五分で後部甲板に整列だ!」
大輔、俊平、高山たちは無言で更衣室へ走り、五ミリ厚の黒いゴムの皮膚へと身を滑り込ませた。フィンを掴み、ナイフとラインカッターの固定を確認し、バックルの緩みを点検する。手元の震えを、大輔は奥歯を噛み締めてねじ伏せた。
甲板へ駆け上がった瞬間、ディーゼルエンジンの唸りとともに白波を蹴立てて急行する船の先、鉛色の海上に浮かぶ白い船腹が見えた。
転覆したプレジャーボートだ。船体は完全にひっくり返り、フジツボの付いた船底を空に向けている。そしてその周囲――波に洗われる船体のヘリや、漂流するクーラーボックスに必死にしがみつく、点々と蠢く頭部が見えた。
「双眼鏡視認、海上の要救助者は三名! 全員ライフジャケットを着装していません! ……なお、乗船者四名のうち、残り一名の姿が海面に見当たりません!」
見張り員が叫んだ。
着衣のまま水に落ちれば、服が水を吸って急速に浮力を失う。初夏とはいえ水温は十八度、さらに荒れた波と潮流が容赦なく体力を奪っていく。そして何より、海面にいない最後の一人は、ひっくり返った船体の下に閉じ込められている可能性が極めて高かった。
実習船の舷側から、まずはプロである助教たちのスクーバチームと救助用ゴムボートが海面へ降ろされていく。
「待ってください!」
ゴムボートへ乗り込もうとする助教たちの背中に向け、大輔が踏み出した。
「鬼頭教官! 見当たらない一名は、転覆した船底の狭い空間に閉じ込められている可能性があります。助教たちの大柄な体躯と背負いシリンダーでは、破損した船内の狭隘部に引っかかって進入に時間がかかります!」
「なんだと……?」
「俺たちを第一救助隊の補佐として連れていってください! 海面の溺者確保のサポートでも、狭隘部の索敵でも、プールのトラップ区画を突破した俺たちなら役に立てます!」
本来なら実習船の甲板から指揮を執る立場だった鬼頭の双眸が、鋭く大輔を射抜いた。規律を重んじる学校において、まだ学生の身である候補生を実際の現場に投入するのは、組織として重大な責任問題を伴う。
だが、目前の海域は荒れ、助教だけでは四名の同時救助に手が回らない。そして何より、「閉鎖空間に進入できる小柄なダイバー」の必要性を、元特救隊員の鬼頭が一番理解していた。
「……高山ペア、および神崎、間。貴様ら四名のみ、助教のゴムボートへの同乗を許可する。シリンダーは背負うな、機動力の高いスキン(素潜り)装備で海面の溺者確保と船体周辺の索敵を補佐しろ。単独での船内進入は絶対に控えろ。――行け!」
「「了解ッ!」」
スロットル全開で転覆現場へ突進するゴムボート。荒々しい潮の臭いと、転覆船から漏れ出す重いエンジンオイル、そして船底塗料の不快な薬品臭がハウンドの鼻を焼く。
助教のペアがまず、風下へ大きく流されたクーラーボックスの溺者一名へ向けて飛び込んだ。残る海面の要救助者は、転覆船のすぐ近くで波に揉まれている二名だ。
「大輔!」
舳先で目元用のツインレンズ・ゴーグルを着けた俊平が、波音に負けない大声で叫んだ。
「船首側で溺れかけている大型犬は、僕が確保に向かう! 船尾側のもう一名は君が頼む!」
「わかった! 絶対に正面から抱きつかせるなよ!」
海難現場において、パニックを起こした溺者への接触は命懸けだ。理性を失い、ただ「浮いているもの」にしがみつこうと爪を立ててよじ登ってくる。正面から組みつかれれば、救助者ごと水底へ引きずり込まれる。
「――エントリー!」
二人のビーグルは、同時にボートの舷を蹴って荒れた海へ身を投げた。
ズブリと重い水音が鼓膜を震わせ、日本海の冷水が全身を締めつける。
プールとは桁違いのうねりと潮流。だが、大輔の四肢は恐怖ではなく、無数の反復訓練によって叩き込まれた動きを正確になぞっていた。
フィンを強く煽り、海面を滑るように進む。
大輔の視界に、船尾に這い上がろうとしては波に叩き落とされる黒い影が映った。中型の犬だ。海水を呑み込み、白目を剥いて虚空を引っ掻いている。
声はかけない。今の彼に言葉など届かない。大輔は飛沫を上げずに背後へと素早く回り込んだ。
教本通りの背後接近。腕を伸ばして暴れる溺者の脇の下へ手を差し入れようとした――その瞬間、激しい引き波が二人を呑み込んだ。
振り向いた溺者の腕が、大輔のウェットスーツの胸元を狂乱の力で掴み取った。
(しまっ……!)
相手の爪がゴムを貫通し、鎖骨の皮膚に食い込む。溺者は大輔の体を足場にしようと、全体重をかけて大輔の頭上へのしかかってきた。
視界が水没する。シュノーケルが外れ、鼻と口に苦い海水が流れ込み、肺が痛烈に軋んだ。
――苦しい、息ができない。
暗い水底へ引きずり込まれかけた脳裏に、あの日の冷たくなった手と、叔父・源蔵の言葉が雷鳴のように響き渡った。
『その言葉はな、暗い水の中で助けを待っている者のために取っておけ!』
「ぐ……あぁっ!」
大輔は水中で躊躇なく溺者の手首の腱を親指で強く圧迫し、下へ潜り込むテイクダウンで強引に組みつきを外させた。間髪を容れず溺者の背後へ反転し、肩越しに胸の前を斜めに横切らせて右腕を回す。教本通りのクロスチェストキャリー(背面搬送)だ。
「確保! 暴れるな、もう大丈夫だ!」
水面を割り、大輔は荒い息を吐きながら溺者のマズルを海面から高く持ち上げた。
「高山、こっちだ! ピックアップ頼む!」
「任せろ!」
ゴムボートの縁から身を乗り出していた高山が、正確なコントロールで救命浮環を投げ込み、大輔と溺者をボートの舷側へと一気にたぐり寄せた。高山たちの太い腕が溺者を船上へ引き上げる。
これで海面の三名は全員確保した。だが、休む暇はない。
船首側の溺者をボートへ引き渡した俊平が、荒い息をつきながら転覆船の脇へ泳ぎ寄ってきた。
「大輔! やはり最後の一人が海上に見当たらない! 船底のエアポケットだ!」
「なに……!」
大輔は即座に転覆したボートの船腹へ取りつき、FRP(繊維強化プラスチック)の船底に掌を押し当てた。拳で船底を三度強く叩く。ドン、ドン、ドン。
そのまま垂れ耳と顎の骨を船体に密着させ、神経を研ぎ澄ます。
波が船体を叩く重低音の奥から、微かな振動が頭蓋骨を揺らした。カリ、カリッ……と内側から壁を引っ掻く爪の音と、ドン……ドン、という弱々しいノックの応答。
――生きている。すぐこの下にいる。
だが、ひっくり返った船体の周囲には、千切れた係船ロープや漂流する漁具、そして漏れ出したエンジンオイルの黒い油膜が渦を巻いていた。遅れて到着したスクーバ装備の助教たちが下から進入を試みようとしているが、背負ったシリンダーが折れ曲がったオーニング(日除け用の金属パイプ)の残骸に阻まれ、ロープの切断とルート確保に手間取っている。
「大輔、シリンダーなしの素潜りで閉鎖空間に入るのは自殺行為だぞ!」
俊平の叫びが波音に混じる。
「船底のエアポケットは、排気ガスや気化した燃料が滞留している毒ガスの罠かもしれない! もし息継ぎした空気が汚染されていたら、一息で意識を失ってそのまま水底に沈むぞ!」
素潜りでの閉鎖空間進入がいかに致死的な行動であるか、ダイビングの物理を学んだ彼らには痛いほど分かっていた。
だが、船体越しに伝わってくる内部の引っ掻き音は、秒単位で弱まっている。
「……助教たちがパイプを切ってルートを作るのを待ってたら、中の空気が尽きてあいつが死ぬ!」
「待て、大輔!」
「息なら、あのプールで死ぬほど止めてきただろ! 俺たちの小さな骨格なら、あのパイプの隙間をそのまま抜けられる!」
大輔はゴムボートから垂れていた一本のフローティングロープ(浮力のある救命索)を引き寄せると、震える手で自身の腰に絶対解けないボーラインノットの結び目を作った。
水が怖い。光も届かない油まみれの閉鎖空間など、発狂しそうなほどの恐怖だ。だが、この命綱の先には、背中を預けられるバディがいる。
「俊平、いいか! 俺がこのロープを二回強く引いたら『要救助者確保』の合図だ。その時は高山たちと一緒に二人分を一気に引き上げろ!」
「……もし、引っかかったりガスにやられたらどうする気だ!」
「一分経っても合図がないか、ロープが不規則に痙攣したら、俺が死にかけてる証拠だ! その時は俺の腕が千切れようが構わない、障害物ごと力ずくで引きずり出せ!」
「……っ、ふざけるなよ。死ぬな、大輔!」
ボートの上へ上がった俊平が、高山とともにロープの端を血が滲むほど力強く握りしめるのを確認し、大輔は大きく肺いっぱいに初夏の空気を吸い込んだ。
あの日、掴めなかった小さな手。それを今度こそ掴み取るために、小柄なビーグルは命綱一本だけを腰に巻き、黒い油の浮く暗黒の海面へと真っ逆さまに潜降した。




