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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第11話 独善の代償

第1部 第11話:独善の代償

 京都・舞鶴沖。

 荒れ狂う若狭湾の海面で、実習船と救助艇が波に大きく煽られていた。

 大輔は、甲板の縁にへばりついていた。

 視線の先には、激しく揺れる海面と、それに飲み込まれまいと藻掻くバディの姿があった。

 事の発端は、大輔の独善だった。

 転覆船の中に十三歳のビーグルの少女がいると知った瞬間、過去のトラウマに火をつけられた大輔は、待機命令を無視して追加器材を運ぶ救助艇へ飛び移ろうとした。

 水への恐怖すら見失った狂気のヒロイズム。

 だが、波に煽られた船間は無慈悲に開き、大輔は虚空を踏んだ。

「大輔ッ!」

 背後から飛び出してきた俊平が、落ちかけた大輔の救命胴衣を力任せに引き戻した。

 大輔が甲板へ叩きつけられた直後、鈍く、凄惨な音が響いた。

 実習船と救助艇を繋ぐ係留索の金具。そこへ、大輔の体重を支えきれずに滑った俊平の右手が、容赦なく巻き込まれたのだ。

「……ぁ、あああッ!」

 俊平の喉から、獣の悲鳴が弾けた。

 乗組員が慌ててワイヤーを解除したが、遅かった。俊平の右手のグローブは無残に引き裂かれ、肉が削げ、白い骨の欠片すら覗くほどの致命的な裂傷を負っていた。

 大量の血が、雨に濡れた甲板に黒いシミを広げていく。

 大輔は、膝をついたまま動けなかった。

 救助艇の乗組員が俊平の応急処置に追われ、転覆船の少女を救うための活動は、完全に停止した。

 自分が助けたかった少女の命のタイムリミットを、他でもない大輔の浅はかな正義感が削り取ったのだ。

 * * *

 帰港後。実習船の冷たい会議室。

 巨大な土佐犬の鬼頭教官が、大輔を見下ろしていた。

「神崎俊平は右手腱の部分断裂、および指骨骨折。特救隊はおろか、当面は潜水すら不可能だ」

 宣告は、氷のように冷徹だった。

 大輔は血の気の引いた顔で、うつむくことしかできなかった。

「俺は、お前たちに言ったはずだ。海で最も危険なのは、任務の達成や自分の感情に酔い、安全を忘れる奴だと。お前の『助けたい』という独りよがりな感情が、バディの未来を殺し、要救助者の救出を遅らせた。言い訳はあるか」

「……ありません」

 大輔の喉から、掠れた音だけが漏れた。

「ならば処分を伝える」

 鬼頭は一切の感情を排して言った。

「間大輔。貴様を、本日付で『救難強化指定』から除外する。潜水士への道は、今ここで断たれた。沿岸警備学校そのものの退学処分についても、現在本校で検討中だ」

 息が止まった。

 頭が真っ白になり、心臓が凍りつく。

「お前は海を舐めた。もう二度と、海に関わるな」

 鬼頭はそれだけを言い捨て、会議室を後にした。

 * * *

 医務室の前の廊下。

 処置を終えた俊平が、分厚い包帯とギプスで固定された右手を吊り下げて出てきた。

 顔面は青白く、唇は噛み切ったように傷ついていた。

 大輔は壁に手をつき、這うようにして俊平の前に出た。

「……俊平」

 謝罪の言葉すら、口に出す資格がないことは分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。

「……すまない。俺のせいで……っ」

 俊平は足を止め、大輔を見た。

 その栗色の瞳には、怒りすらなかった。ただ、絶対的な虚無と、底知れない絶望だけが沈んでいた。

「……大輔」

 ひび割れた、乾いた声だった。

「君のトラウマも、ヒロイズムも、どうでもいい」

 俊平は、動かなくなった右手を見下ろした。

「君のくだらない自己満足のせいで、僕の海は終わった。……僕の人生を、返してくれ」

 大輔の胸に、見えない刃が深々と突き立てられた。

 俊平はそれ以上何も言わず、大輔の横を通り過ぎていった。

 バディという関係すら、もうそこにはなかった。

 夜の学生寮。

 同室の俊平は帰ってこなかった。医務室に入院したのだ。

 大輔は、照明もつけない真っ暗な六畳間で、一人万年床の上にうずくまっていた。

 ポケットの中のホイッスルを握る資格すら、今の自分にはない。

 窓の外からは、冷たい雨の音と、重い波の音が聞こえてくる。

 誰も救えなかった。

 過去の少年も。今日の少女も。

 それどころか、ただ一人自分を信じてくれたバディの未来すら、この手で無残に叩き壊した。

「……あ、ぁぁ……っ」

 大輔は自分の両手を顔に押し当て、声を殺してむせび泣いた。

 暗闇の中、大輔の海難救助への道は、何一つ救えないまま完全な終焉を迎えていた。

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