第12話 修了の審判
第1部 第12話:修了の審判
七月上旬。京都・舞鶴。
屋内水泳訓練場の水面は、梅雨空の重い空気を吸って澱んでいるように見えた。
プールサイドに整列した学生は、わずか八名。
今日、救難強化指定・基礎適性選抜の最終評価が行われる。この三か月間の地獄を生き残った者だけが、潜水士への切符を手にする。
間大輔は、列の端で奥歯を噛み締めていた。
彼がこの場に立っているのは、奇跡ではなく「執行猶予」に過ぎなかった。
六月下旬の海難現場で命令を無視し、バディである神崎俊平の右手を破壊した大輔は、鬼頭教官から完全除外と退学の宣告を受けた。だが、大輔は鬼頭の部屋の前に三日間座り込み、土下座の姿勢のまま「俺の命を俊平の右手の代わりにさせてくれ」と血を吐くような声で直訴し続けた。
鬼頭が突きつけた条件は一つ。
『最終評価で、右手の使えない神崎を完璧にカバーし、生還させろ。一秒でも判断を誤れば、二人まとめて海から追放する』
大輔の隣には、黒いウェットスーツ姿の俊平が立っている。
右手のギプスは外れているが、腱の部分断裂の傷跡は生々しく赤く腫れ上がり、満足な握力は戻っていない。本来なら試験を受けられる状態ではない。それでも俊平は、特救隊への執念だけで鎮痛剤を飲み下し、この場に立っていた。
「……俊平。右手は」
「黙れ」
俊平は前を向いたまま、氷のような声で遮った。
「君に心配される筋合いはない。言ったはずだ、足手まといになれば切り捨てるとな」
あの日以来、二人の間に会話らしい会話はなかった。バディという絆は砕け散り、あるのは「互いを利用して試験を突破する」という冷徹な利害関係だけだ。
巨大な土佐犬、鬼頭教官が重い足音を響かせて現れた。
「これより、最終評価を開始する! 本日の課題は、視界不良の閉鎖空間における救難判断およびバディの安全確保だ!」
鬼頭の濁った眼光が、大輔と俊平を鋭く射抜いた。
「いくら泳ぎが速くても、仲間を殺す奴に海を泳ぐ資格はない。自分に何ができ、何ができないか。命の極限で証明してみせろ!」
「はいッ!」
第一種目の基礎泳力、第二種目の器材確認。
高山をはじめとする大型犬たちが次々と基準をクリアしていく中、大輔は全神経を俊平の右手に集中させていた。俊平の泳ぎは、片手が不完全なぶん、体幹のひねりとフィンワークで強引に推進力を生み出すものだった。痛みに顔が歪むたび、大輔が即座に死角へ回り込み、俊平の死命を制する位置をキープし続けた。
そして、最終課題。
黒い遮蔽板で覆われた、模擬船体内部への進入と要救助者の確保。
二人はレギュレーターを咥え、暗黒の水底へ潜った。
視界ゼロ。絡みつく模擬ケーブルと崩落した鉄枠。プールの底という安全な環境でありながら、大輔のトラウマを容赦なく抉り出す死の迷宮だ。
大輔が先行し、障害物を排除してルートを作る。俊平が片手でダミーを確保し、浮上へ向かおうとした、その時だった。
ガッ!
背後で、鈍い水音がした。
振り返ると、崩落を模した頭上のネットが崩れ、俊平の右腕に絡みついていた。
右手が使えない俊平は、もがくほどにネットに絡め取られ、レギュレーターから激しい気泡が漏れ始めた。
水深四メートル。パニックが俊平の目を白黒させる。
(……俊平ッ!)
大輔の脳裏に、水底に沈んだ少年の姿と、あの日の海難現場の悪夢がフラッシュバックした。
『お前が勝手な行動を取ったことで、神崎は危険にさらされた』
鬼頭の言葉が蘇る。助けを呼ぶべきか。水面に浮上し、教官に異常を知らせるのが「マニュアルの正解」だ。
だが、大輔は水面へ向かわなかった。
今、水面に出れば、俊平の評価は「行動不能」となり、特救隊への道は完全に絶たれる。自分の罪のせいで、俊平の人生を二度も終わらせるわけにはいかない。
(俺が、助ける……!)
大輔は己のトラウマを怒りで叩き潰し、全速力で俊平のもとへ泳いだ。
ナイフを抜き放ち、俊平の右腕に絡まるネットを荒々しく切断する。俊平が痛みに暴れ、大輔のマスクを蹴り飛ばした。視界がぼやけ、鼻腔に水が入り込む。
パニックになりかける体を、大輔は強靭な意志でねじ伏せた。
ネットを切り裂き、ダミーを抱えた俊平のベルトを左手で強引に掴む。右手でフィンを水を叩き割るように蹴り、二人分の重量を大輔の小柄なビーグルの体一つで引き上げた。
水面の光が近づく。肺が悲鳴を上げ、意識が遠のく中、大輔は絶対に俊平の手を離さなかった。
ザバァッ!!
二人は水面を割り、プールサイドへダミーを放り投げた。
「……っ、ハァッ、ハァッ……!」
大輔はマスクをかなぐり捨て、タイルの上で激しく咳き込んだ。
傍らで、俊平も荒い息を吐きながら、動かない右手を押さえている。
見下ろす鬼頭の顔には、一切の感情が読み取れなかった。
「……間。なぜ水面へ出て異常を報告しなかった。規定違反だぞ」
「……報告している間に、バディが溺れますッ!」
大輔は、震える足で立ち上がり、鬼頭の濁った目を睨み返した。
「俺はもう、目の前の命から逃げません。自分の命を懸けてでも、相棒の背中は俺が守ります」
訓練場に、重い沈黙が落ちた。
鬼頭は自分のダイバーズウォッチへ視線を落とし、やがて短く息を吐いた。
「……間大輔、神崎俊平」
腹の底から響く声。
「基礎適性選抜、修了。……命拾いしたな、貴様ら」
その言葉を聞いた瞬間、大輔の全身から力が抜け、その場に膝をついた。
* * *
夕方。雨上がりの舞鶴湾が、沈みゆく夕陽に血のように赤く染まっていた。
訓練場を出た大輔と俊平は、無言のまま学生寮へ続く道を歩いていた。
潮風が、火照った毛皮を撫でていく。
「……俊平」
大輔が足を止め、ポツリと口を開いた。
「お前の右手が元に戻るまで……いや、戻らなくても、俺が一生お前の右手の代わりになる。絶対に、羽田まで連れて行く」
それは、馴れ合いではない。己の罪に対する、一生を懸けた贖罪の誓いだった。
俊平は立ち止まり、包帯の巻かれた右手を見下ろした。
やがて、冷たい栗色の瞳を大輔へ向ける。
「……ふざけるな」
静かな、だが確かな熱を帯びた声だった。
「僕の右手を舐めるな。お前の手なんか借りなくても、自分の力で羽田へ行く。少しでも足手まといになれば、容赦なく切り捨てるぞ」
「……ああ。分かってる」
大輔は、凶悪な笑みを浮かべた。
「置いていけるものなら、やってみろ」
俊平は小さく鼻を鳴らし、再び歩き始めた。
和解の言葉も、握手もない。だが、二匹のビーグルの間には、互いの命と実力を天秤に乗せた、鋼のようなバディの絆が確かに結ばれていた。
第一の関門は突破した。だが、海は彼らの努力を褒めてはくれない。
真の地獄は、まだこれから始まるのだ。




