第13話 舞鶴からの巣立ち
第1部 第13話 舞鶴からの巣立ち
三月。京都・舞鶴湾を包む冷気の中に、わずかな春の兆しが混ざり始めていた。
あの修了試験から季節が巡り、入校から一年の月日が過ぎていた。
ジャパウ沿岸警備学校の大講堂には、濃紺の第一種制服に身を包んだ卒業生たちが整列していた。一年間に及ぶ長く厳しい沿岸警備官としての教育を終え、その金ボタンが天井の照明を反射して厳かな空気を満たしている。
だが、その中で「潜水士研修指定」――現場配属後に、潜水士となるための過酷な研修へ進む権利を与えられた者は、講堂全体を見渡してもほんの一握りしかいなかった。
入校直後の調書提出時、二十名いた潜水課程の候補生。
過酷を極めた実技、水圧の恐怖、そして鬼頭教官による非情な選抜を経て、最後まで適性を認められ推薦を勝ち取ったのは、大輔と俊平を含めてわずか六名だった。
約三割。
残りの十四名は途中で音を上げて一般コースへ志望変更したか、肉体の限界を迎えて除籍となっていた。ラブラドール・レトリーバーの高山たち大型水猟犬の同期も、学校そのものは無事に卒業した。しかし、彼らは航海科や機関科の乗組員として現場の船へ配属され、潜水士として冷たい海へ飛び込む切符は得られなかったのだ。
「……卒業生、分かれッ!」
号令とともに、百名以上の卒業生が一斉に靴底を激しく鳴らし、正面の国旗と校旗へ向かって最後の敬礼を捧げた。
大輔は背筋を伸ばし、壇上の光景を見据えた。教官席の端に、右脚を庇うように立つ鬼頭の姿があった。目が合うと、鬼頭は一度だけ、短く顎を引いた。
あの薄暗い六畳間で、塩素の臭いと罪悪感に怯え、震えていた犬はもういない。幾度も泥水を啜り、相棒と命綱を握り合って手に入れた、確かな実感が両肩に宿っていた。
厳粛な儀式が終わり、講堂の重い扉が開かれた瞬間、規律から解き放たれた学生たちの歓声がようやく舞鶴の空に弾けた。
その日の夕方。
東舞鶴のアーケード街にある大衆居酒屋の座敷は、卒業生たちの熱気とジョッキのぶつかり合う音で揺れていた。
明日の早朝には退寮し、それぞれの配属先へと散っていく。今夜だけは特例として深夜までの『特別外出』が許可されており、一年間自由を縛りつけられていた若者たちのタガは完全に外れていた。
「乾杯ァーーーイッ!」
威勢のいい掛け声とともに、濃褐色の液体がジョッキから泡を跳ねさせる。
彼らが呷っているのはアルコールではない。犬の肝臓にとって致命的な毒となるエタノールを一切含まず、麦芽と牛骨の髄を乳酸発酵させて作られた、犬人専用の強烈な匂いを持つ疑似エールだ。
テーブルには山盛りの焼き鳥、豪快に炙られた骨付きのスペアリブ、赤身肉のタタキが次々と運ばれてきた。犬の腎臓への負担を考慮して塩気を極限まで削ぎ落とし、その分、焦げた獣肉の血と骨髄の旨味だけで食わせる野性的な料理の香りが、鋭い嗅覚を容赦なく刺激する。厳しい規律とカロリー計算に縛られていた学生たちにとって、それは本能を剥き出しにする狂喜乱舞の宴だった。
大輔は、目の前で泡を立てるジョッキを見つめていた。あの日、自室の暗がりで安酒の空き缶に埋もれていた手が、いま、仲間のジョッキと確かに触れ合っている。冷たいエールを一気に喉へ流し込んだ。
「食え食え! 今日くらいカロリー計算のことは忘れろ!」
巨漢の高山が、すでに三杯目のエールをあおり、太い骨付き肉を噛み砕きながら豪快に笑った。その横では、機関科へ進むチェサピークや通信科のドーベルマンが肩を組み、校歌をがなり立てている。
高山は大輔と俊平の間にどっかりと腰を下ろすと、分厚い腕で二人の背中をバシバシと叩いた。
「いてて……高山、相変わらず腕が重いって」
大輔が苦笑いすると、高山はジョッキを置き、少し目を細めて大輔たちの横顔を見つめた。
「……悔しいけどよ」
高山の声が、ふっと低くなった。
「俺は、あの素潜り五十メートルで暗闇の恐怖に負けた。……お前ら二人が、あそこで一度も止まらずに壁までタッチした背中、今でも目に焼き付いてるぜ」
「高山……」
「お前らはこれから現場の巡視船に出た後、本物の地獄へ行くんだろ。呉の研修へ。……俺は、ブリッジで操舵を握る航海科の乗組員になる。いつか、自分の船を任される航海長になってやる」
高山は並々と注がれたジョッキを差し出した。
「だからよ。もし俺の船から海へ飛び込む潜水士がいるなら……お前らみたいな狂った奴らであってほしいと本気で思ってる。お前らが波の真ん中で力尽きそうになったら、俺が船をピタリと寄せて拾い上げてやるからよ。……生きて徽章を獲ってこい、大輔、俊平」
俊平が静かに自分のジョッキを取り、カチンと音を立てて合わせる。
「航海科が船を正確に風上へ立ててくれなきゃ、僕らは波に飲まれる。……上からしっかり見張っててくれよ、高山」
「当たり前だバカ野郎! 波の真ん中にきっちり落としてやるよ!」
宴は夜更けまで続いた。
笑い、語り、時には訓練の理不尽さを罵り合いながら、それぞれが日本の海へと散っていく覚悟を固め合っていた。
ふと、大輔は熱気渦巻く座敷を抜け出し、店の外の路地へ出た。
夜の冷気が、火照ったマズルを心地よく冷ましてくれる。
見上げれば、細い路地を吹き抜ける風に乗って、冷たい日本海の潮の匂いと、遠く湾内に停泊する巡視船の重い汽笛が聞こえてきた。圧倒的な質量を持つ「海」が、すぐそこにあることを伝えている。
大輔は、ジーンズのポケットに手を入れた。
指先が、冷たい金属の塊に触れる。あの日からずっと手放せなかった、真鍮のホイッスル。プールの底で教え子の命を零した罰の象徴。その罪が消えることは一生ない。これから潜水士徽章を手に入れたとしても、それが免罪符になるわけではないのだ。
だが、そのホイッスルの横で、低い振動とともにスマートフォンが震えた。
画面には、呉にいる叔父の源蔵から届いた、短すぎるメッセージが一通だけ表示されていた。
『切符を手に入れたようだな。だが、海はお前を待っちゃくれん。生き残れ』
大輔は小さく鼻を鳴らし、ホイッスルから指を離してスマートフォンをポケットに仕舞い直した。今の自分の腕には、罰を受けるためではなく、誰かの命を泥水の中から引きずり上げるための確かなロジックと力が宿っている。
「……風に当たってたのか」
引き戸が開き、俊平が出てきた。
首元を緩めた制服姿の相棒は、夜空を見上げ、白く濁る息を吐き出した。
「明日には、配属先の内示が出るな」
「ああ」
大輔は頷いた。
「俺たちの目指す場所は、まだ先だ」
舞鶴を巣立ち、全国の管区で現場の荒波に揉まれた後、彼らは再び集うことになる。
本物の潜水士の証である『銀のイルカ』を掴み取るための場所――広島・呉での地獄の潜水技術研修。そしてその先に待つ、海難救助の極限である羽田の特殊救難隊。
二匹のビーグルが挑む航海は、ここ舞鶴の夜の街から、さらに暗く深い本物の荒波へと続いていく。
(第1部、完)




