第14話 散開の海路
第2部 第14話:散開の海路
宴の熱気が嘘のように引き、舞鶴の朝は底冷えのする霧に包まれていた。
ジャパウ沿岸警備学校の本館前広場。使い込まれたダイビングナイフや装備品を分厚いダッフルバッグに詰め終えた新任警備官たちが、張り詰めた面持ちで掲示板の前に集結していた。
貼り出された一枚の白い奉書紙。
そこには、卒業生全員の命運を分ける「初任地配属先一覧」が墨痕鮮やかに刻まれていた。
「……出たぞ」
人波の頭越しに、高山が唸るような声を漏らした。
視線を走らせる大輔の喉が鳴る。
まず目に飛び込んできたのは、巨漢・高山の名だった。
『学生番号〇三八 高山――第一管区沿岸警備本部(小樽)配属。砕氷型巡視船 航海科付』
「第一管区……北海道か」
高山が分厚い胸を叩き、白い犬歯を見せた。
「流氷と極寒のオホーツク海だ。甲板が凍りつく修羅場だが、大型船の航海科としては願ってもない現場だ。……俺の操船で、北の荒波をねじ伏せてやる」
過酷な北方警備を前にしても微塵も怯まないその横顔は、まぎれもなく本物の海を背負う者のそれだった。
続いて、大輔と俊平の名が並んでいた。
だが、その配属先を目にした瞬間、二人は同時に息を呑んだ。
『学生番号〇八一 神崎俊平――第三管区沿岸警備本部(横浜)配属。巡視船 航海科付(潜水研修指定)』
『学生番号〇八二 間大輔――第六管区沿岸警備本部(広島)配属。巡視船 航海科付(潜水研修指定)』
――別れだ。
舞鶴のプールで共に泥水を啜り、互いの命綱を握り合ってきたビーグル二匹のバディは、ここで一度解散となる。
「第三管区と、第六管区か……」
大輔は小さく呟いた。
俊平の第三管区・横浜は、東京湾を抱える日本の心臓部。過密な国際航路、羽田沖の航空機事故対応、そして外洋の伊豆諸島までをカバーする最前線。何より――海難救助の最高峰、羽田・特殊救難隊のお膝元だ。
そして第六管区・広島。大輔が配属されるのは、西日本の大動脈たる瀬戸内海だ。穏やかに見える水面の裏で、最大十ノットを超える来島海峡や、音戸の瀬戸といった暗礁と激流が複雑怪奇な潮流を生み出す。瀬戸内は穏やかだという素人の幻想を嘲笑うかのような、国内屈指の海難多発海域である。
何より、広島・呉は――大輔がかつてプールの底で教え子の命を零し、安酒の空き缶に埋もれて逃げ込んでいたトラウマの原点だった。「生き残れ」とメッセージを寄越した叔父・源蔵の元へ、地獄へ挑む切符を握りしめて再び舞い戻ることになる。
「……離れ離れだな、大輔」
俊平が重いダッフルバッグを肩に担ぎ直し、静かに大輔を振り返った。
その瞳に動揺はなかった。あるのは、研ぎ澄まされた刃のような覚悟だ。
「当たり前だ。同じ船に小柄なハウンドが二人も乗ってみろ。現場の大型犬たちに、船のバランスが悪いと笑われるのがオチだ」
強がりを言ってみせた大輔に、俊平はふっと口元を緩めた。だが、その声はすぐに低く引き締まる。
「お前の地元の海だろ。暗礁と激流だらけの便所みたいな海で、過去の幻影に溺れるなよ」
「そっちこそ。東京湾のヘドロと大型船の引き波に呑まれるなよ、俊平」
「呑まれる暇なんかないさ」
俊平は第三管区の文字を指先でなぞり、前を見据えた。
「横浜の先に、羽田がある。……僕らはまだ、スタートラインの砂を蹴っただけに過ぎないんだ」
「ああ」
大輔も力強く頷いた。
舞鶴で培った基礎は、現場という本物の海に出て初めて試される。配属先では、まずは甲板掃除と見張りから始まる一番下っ端の「航海科員」だ。大型巡視船に乗船すれば、待ち受けているのは百戦錬磨のベテラン潜水士たち。彼らに認められ、推薦状を維持したまま呉の研修へ進むには、あの選抜以上の地獄を潜り抜けなければならない。
校門の前で、高山が二人に向き直った。馴れ合いのスキンシップはない。ただ、冷徹な使役犬の目で二匹のハウンドを見下ろした。
「昨夜の杯の誓いは、忘れちゃいねえよな」
「……」
「俺は北の海で船の腕を磨く。お前らはそれぞれの現場で、這いつくばってでも推薦枠を守り抜け。……数年後、本物の『銀のイルカ』を獲るための呉の研修で、必ず再会するぞ」
「ああ、絶対に沈むなよ、高山」
無言の敬礼を交わし、新任警備官たちはそれぞれの任地へと背を向けた。
舞鶴の坂を下る大輔の胸には、まだ何の徽章もない。だが、そこにはいずれ手にする重い銀の輝きを見据えた、確かな熱が宿っていた。
北の凍てつく流氷の海へ向かう高山。
首都の巨大な過密海域へ挑む俊平。
そして大輔は、過去の記憶が沈む瀬戸内・広島の海へ――。
*
同じ頃。ジャパウ海上防衛隊・舞鶴基地の隊舎で、明は一枚の厚手な紙を前に頬杖をついていた。
『ジャパウ沿岸警備庁 有資格者特別採用試験 受験願書』と印字された紙。
暗い海底の泥に埋まる機雷を、信管ごと無力化するEOD(水中処分員)の日々。その破壊と処理の極限任務に誇りはある。防衛隊の精鋭たる地位を捨てて他組織の門を叩くなど、周囲から見れば狂気の沙汰だろう。
だが、先の合同訓練で出会った同胞たちの姿が、明の脳裏に焼き付いて離れなかった。
明は傍らに置かれた、潮と硝煙の匂いが染みついた非磁性ダイバーズナイフへ視線を落とす。軍用の閉鎖循環式リブリーザーを操り、鉄の塊を解体するためだけに死の淵を歩いてきた自分の技術。それを、「破壊」ではなく、冷たい水底から泥臭く命を「拾い上げる」ために振るってみたくなったのだ。
あいつらと本気の現場で交わったとき、自分の技術がどんな化学反応を起こすのか。ハウンド特有の根源的な飢餓感が、明の神経を焼け焦がすように刺激していた。
明の琥珀色の瞳は、窓の外の荒れる海を真っ直ぐに射抜いていた。
指先で弄んでいたボールペンが、カチリと音を立てる。
――迷いなく、黒い鼻先をひくつかせたビーグルのペン先が、白い紙へと滑り出した。




