第15話 白き鉄の城
第2部 第15話:白き鉄の城
四月。呉港の岸壁に、白亜の巨躯が横付けされていた。
第六管区沿岸警備本部所属、三千トン級大型巡視船(PL)「ながら」。
全長百メートルを超える船体には、濃紺のコンパスマークと青のS字章が鮮烈に引かれている。甲板の上では係留索の点検を行う乗組員たちの鋭い号令が飛び交い、潮風に乗って防錆塗料と濃い重油の臭いが漂っていた。
大輔は大型のダッフルバッグを足元に置き、岸壁の端からその無骨な鉄の塊を見上げ、息を呑んだ。
実習船とは何もかもが違う。現場の最前線を張る巨大なワークホースが放つ威圧感は、小柄なビーグルの背筋を無言で正させた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、配属が決まった日の叔父・源蔵との短い電話を思い出す。
『第六管区の「ながら」に決まりました』
そう告げたとき、電話口の向こうで老船長がパイプを燻らせる小さな吸気音が聞こえた。
『……まずは卒業おめでとう。ほう、「ながら」か。あそこの船長は誰だ』
『小島船長、と聞いています』
『小島か。……あいつがもう船長を張る歳になったか』
源蔵は低く嗄れた笑い声を漏らし、タンパーで灰を叩く硬い音を響かせた。
『小島は昔、俺の船で航海長をやっていた男だ。見た目は飄々としとるが、操船の腕と部下の見極めに関しては針一本通さん厳格さを持っとる。……甘ったれた真似をすりゃ、初日の出港で海へ蹴り落とされるぞ。覚悟してタラップを上がれ』
叔父の言葉が耳の奥で蘇る。
大輔は制帽を深く被り直し、ダッフルバッグを肩に担ぐと、舷門へ架けられたタラップに右足を乗せた。
カン、カン、と響く鉄のステップ。
甲板に足を踏み入れた瞬間、大輔はダッフルバッグを下ろし、船尾で風にはためく庁旗に向かって鋭く敬礼した。次いで、舷門当直の乗組員に向き直る。
「本日付で当船への乗船を命ぜられました、三等沿岸警備士、間大輔です!」
「ご苦労。……新任の航海科付、潜水研修指定だな」
当直は小柄な大輔の体格に一瞬だけ目を細めたが、すぐに答礼を返し、傍らの若い甲板員に顎をしゃくった。
「船長と副長がお待ちだ。案内してやれ」
「はっ! こちらへどうぞ」
案内された船内は、狭く入り組んでいた。頭上には無数の配管とケーブルが走り、足元には防水扉の頑丈なコーミング。アイドリングする主機の重厚な振動が、靴底を通じて全身の骨を振るわせる。
船長室の前に立ち、案内役の甲板員が退がると、大輔は荒い呼吸を整え、金属の扉を三度ノックした。
「入れ」
中から返ってきたのは、落ち着いた、よく通る声だった。
扉を開けて入室する。船長室のデスクに座っていたのは、シルバーグレーの滑らかな毛並みを持つワイマラナーの船長だった。そしてその斜め後ろには、船のナンバー2である副長――筋骨隆々としたドーベルマンが、彫像のように直立して大輔を睨み下ろしている。
軍犬と猟犬が放つ、息が詰まるような威圧感。デスクのネームプレートには『船長 小島』の文字。
「三等沿岸警備士、間大輔! ただいま着任いたしました!」
大輔が爪先を揃え、指先が震えるほどの最敬礼を捧げる。
小島船長は手元の着任申告書からゆっくりと視線を上げ、大輔を爪先から耳の先まで見定めるようにじっくりと眺めた。「灰色の幽霊」と呼ばれるワイマラナー特有の、底知れぬブルーグレーの双眸が、水底の暗流を見透かすように冷たく光っている。
「着任ご苦労。……休め」
小島の静かな声に、大輔は姿勢を解き、脚を開いて両手を後ろで組んだ。
「君の経歴は目を通している。舞鶴の潜水適性選抜を突破したそうだな。……だが、ここは訓練用のプールではない。プロの現場だ。体格の不利や過去の経歴など、海の上では何の言い訳にもならん」
「はい!」
一切の私情を交えない、指揮官としての冷徹な訓示。大輔は瞬き一つせず、真っ直ぐに前を見据えて応えた。
沈黙が落ちる。
小島は書類から視線を外し、背後の舷窓から外の海を見つめた。窓の向こうには、穏やかに凪いだ広島湾の青が広がっている。
「……源蔵さんの甥だそうだな」
不意に、小島がぽつりと呟いた。大輔の肩がわずかに強張る。だが、振り返った小島の瞳に、かつての上司の身内を歓迎するような温かさは微塵もなかった。
「勘違いするなよ、大輔。瀬戸内海を舐めてもらっては困る。一歩狭い瀬戸に入れば、潮流は八ノットを超え、海底には複雑な暗礁と渦が待ち構えている。さらにここはジャパウ屈指の超過密航路だ」
小島はデスクに両手をつき、その鋭い眼光を大輔の喉元に突き刺した。
「源蔵さんの顔を立てて特別扱いする気は毛頭ない。お前の配属は航海科だ。まずは甲板掃除と錆打ち、そして長時間の見張りから『船の基本』を叩き込め。潜水班の訓練に混ざれるのは非番の時だけだ。……甲板員としての責務を果たせない者に、潜水士の推薦枠は残しておかん。分かったな?」
「はいッ!」
余計な言葉は一切返さない。ただ、己の魂を込めた短い返答だけを、船長室の空気に叩きつけた。
大輔の揺るぎない眼差しに、小島船長はわずかにマズルの端を上げた。その表情に、かつて源蔵の船で鍛え上げられた海の男の血が微かに垣間見えた。
「よろしい。まずは直属の上司になる甲板長のところへ行け。その後、後甲板の下にある潜水班の控え室へ顔を出してこい。……歓迎する、『ながら』へ」
敬礼を交わし、大輔は船長室を辞した。
鉄の扉を背中で閉めた瞬間、全身の筋肉が痺れるような熱を帯びるのを感じた。
容赦のない厳格な船長、未知の激流が渦巻く瀬戸内海。本業である甲板員としての泥臭い下積みをこなしながら、百戦錬磨の「ながら」潜水班のシゴキに耐え抜かなければならない。
学校という揺りかごを抜けた大輔の、プロフェッショナルとしての第一歩が、この鉄の甲板の上から始まった。




