第16話 潰れ鼻の潜水士
第2部 第16話:潰れ鼻の潜水士
後甲板の下、重油とネオプレンゴムの匂いが立ち込める潜水班控室。
分厚い防水扉をノックして開けた大輔は、直立不動で声を張り上げた。
「失礼します! 航海科の間大輔、三等沿岸警備士です! 甲板長より、充填済みシリンダーの点検簿をお持ちしました!」
部屋にいたのは、二人の犬だった。
一人は、奥のスチール机で書類をめくる巨大なシェパード。筋骨隆々の体躯に、刃物のような眼光。胸元には、歴戦の潜水士であることを示す『銀のイルカ』の徽章が光っている。潜水班長・佐々木一等沿岸警備士だ。
そしてもう一人――ベンチプレス用のフラットベンチに無造作に腰掛け、スポーツドリンクをちびちびと飲んでいたのは、信じがたい姿の潜水士だった。
深いシワの刻まれた、平たい顔。完全に潰れたマズルに、くりくりとした大きな黒目。太く短い四肢に、樽のような胴体。
――パグだった。
「……パグ?」
大輔は思わず喉を詰まらせかけた。
潜水士の世界で、短頭種は「生理学的・物理的に不可能」と教本にまで書かれている。
理由は単純だ。生まれつき鼻腔が極端に狭く、軟口蓋が長いため、陸上で激しく動くだけで呼吸困難を起こす。さらに、犬人用の潜水器材は「突出したマズル全体を覆う筒状のマスク」が官給品として採用されており、マズルのない短頭種には物理的に適合しない。水深数十メートルの水圧下で潮流に抗うなど、自殺行為に等しいはずだった。
「お、航海科の新入りか。点検簿、そこ置いといてくれ」
パグの潜水士は、喉の奥でフゴッと鳴らすような独特の鼻息とともに立ち上がった。
ネームプレートには『神田』の文字。そしてその胸にも、佐々木と同じ銀のイルカが輝いていた。
背丈は大輔よりもさらに低い。だが、半袖の作業服から覗く首回りと僧帽筋は、岩塊のように硬く詰まっていた。
「大輔です。よろしくお願いします、神田先輩」
書類を受け取る際に触れた手は、掌の厚みも、皮膚の硬さも、並の犬のものではなかった。
なぜ、この体で本物の潜水士になれたのか。疑問が顔に出ていたのだろう。神田は鼻をフンと鳴らし、飄々とした足取りでロッカーへ歩いていった。
「おい、間」
奥から、佐々木班長が手招きする。
大輔は背筋を伸ばし、机の前に立った。佐々木は鋭い眼光を向け、低く重い声で切り出した。
「何を考えているか、丸わかりだな。『なぜマズルのない短頭種がバッジを着けている』――そういう顔だ」
「……失礼を承知で申し上げます。気道抵抗や耳抜きのリスクを考えれば、短頭種の実戦配備は極めて困難と習いました。それに、あの平たい顔では、官給品のマスクは水圧で浸水するはずです」
正直に申告すると、佐々木は口元に、微かに苦い笑みを浮かべた。
「教科書通りだな。だが、海は教本通りには動かん」
佐々木は立ち上がり、壁の海図を拳でドンと叩いた。
「神田は、生まれつきの気道を作り変えるために、自ら軟口蓋を切除する拡張手術を受けた。マスクも特注だ。あの絶壁の顔面に強引に密着させる、人間用の器材に近い平面密着型のフルフェイスを自費で仕立てさせた」
「手術……自分から、ですか」
「そうだ。だが、神田の本当の武器はそこじゃない」
佐々木は、ロッカーで準備を進める神田の背中を見やった。
「あいつは愛玩犬だ。お前ら猟犬や闘犬みたいな、闘争心や興奮のスイッチを持たない。だからこそ、どんなに暗く冷たい激流の水底でもパニックを起こさず、心拍数が全く上がらない。底知れぬ図太さこそが、あいつの武器だ。……他の連中が息を乱し、残圧七十を切って浮上を急ぐような現場で、神田だけが残圧三十のデッドラインまで水深四十メートルの暗がりに平然と居残り、作業を終わらせてくる」
大輔の背筋を、戦慄が走った。
体格のハンデを嘆くどころか、異形の骨格を執念で改造し、種族の特性を極限の武器へ変えた男。舞鶴で出会ったエリート大型犬たちとは真逆の、泥と狂気の結晶だった。
「間。お前もビーグルとして、小さな体に引け目を感じて、推薦枠をもぎ取ったんだろう」
佐々木の爪先が、大輔の胸元を指した。
「神田の背中をよく見ておけ。規格外の海難で生き残るのは、優等生じゃない。己の呪いを武器に変えた奴だ。いつか呉の研修を突破して俺たちの隣に立ちたいなら、まずは甲板の上で這いずり回ってフネの仕事を覚えろ」
「はい!」
大輔が返事を上げた、その時だった。
天井のスピーカーから、非常呼集のブザーがけたたましく鳴り響いた。
『――本船乗組員へ緊急入電! 来島海峡西口にて、内航貨物船と砂利運搬船が衝突! 砂利運搬船は急速浸水、転覆の恐れあり! 本船はこれより現場海域へ急行する! 潜水班は直ちにミーティングおよび装備の着装、航海科は救助艇の降下準備にかかれ!』
部屋の空気が一瞬で凍りつき、次の瞬間、爆発的な熱を帯びた。
砂利運搬船(ガット船)。比重の重い積み荷を抱えた船は重心が高く、一度バランスを崩して浸水すれば、坂を転げ落ちるように一気に転覆する。
大輔は反射的に身を翻し、防水扉へ手をかけた。自分の持ち場は後甲板のボート配置だ。
「おい、新米!」
背後から、神田の鋭い怒声が飛んだ。先ほどまで気だるげだったパグが、目にも留まらぬ速さでドライスーツに足を通している。潰れた鼻の奥から、鋭く研ぎ澄まされた呼気が漏れていた。
「現場まで全速で一時間半だ! 甲板長の怒鳴り声が飛んでくる前に、俺たちが乗る後甲板のボートの固定を解いて、海面降下の準備を完璧に終わらせておけ! 瀬戸内の化け物が、お出ましだぞ!」
「了解ッ!」
大輔は短く叫び、防水扉を蹴破るようにして吹き晒しの後甲板へと駆け出した。
自分はまだ、銀のバッジを持たない航海科の乗組員だ。あの海へ直接飛び込む資格はない。だが、プロの潜水士たちの命を繋ぐ歯車としての戦いが、激流の瀬戸内海で今、幕を開けたのだ。




