第17話 三つの海、異形の力
第2部 第17話:三つの海、異形の力
大輔が激流の瀬戸内へ出動していた、まさにその刻。同期たちの海もまた、それぞれの修羅場を迎えていた。
第三管区、東京湾口。
巡視船「とねかぜ」の航海科付として現場へ急行した俊平は、炎上するケミカルタンカーの足元、重油と劇物が混ざり合う黒濁の波間にいた。
海面を舐める黒煙と、有毒ガスの臭気。耐薬品の防護服に身を固め、水面確保のサポート役として海に入った俊平は、沿警校時代と変わらぬ氷のような眼差しのまま漂流ロープをナイフで切り裂き、潜水士たちが引き揚げてきた気絶した船員を、次々と救命索へ繋いでいく。
「一人揚収! 次を寄越せ!」
過密都市の玄関口で、俊平は一分の狂いもない機械のような精密さで、海面の命を拾い集めていた。
遥か北方、第一管区のオホーツク海。
砕氷巡視船「そうや」の船橋では、分厚い防寒外套を着込んだ高山が、操舵輪を握り締めながら凍てつく荒波を睨みつけていた。
領海侵犯の疑いがある、所属不明の不審船。荒れ狂う極寒の海で、氷塊を蹴散らし、針路を塞ぐ強行操船。
「両舷前進全速! 面舵一杯! 逃走航路を完全に遮断しろ!」
背後で指揮を執る船長の怒号が飛ぶ。
「面舵一杯、宜候ッ!」
船長の号令を腹の底から復唱し、かつて素潜りで水を飲んで脱落した巨漢は、いまや鋼鉄の巨躯の舵輪を力ずくで回し切り、国境の海峡をねじ伏せていた。
――そして、第六管区・来島海峡。
「エントリー!」
佐々木班長の号令とともに、神田たち本職の潜水班は巡視船「ながら」の救助艇から、激流へと身を躍らせた。まだ航海科である大輔はボート上に残り、彼らの命綱を力強く握りしめる。
潮流六ノット。暗礁の隙間を抜ける海水は巨大な洗濯機のように渦を巻き、巻き上がった海底の泥で視界は五十センチもない。気を抜けば、一瞬で海峡の底へ叩き落とされる。
ボートの上から目を凝らす大輔の視界に、傾いた砂利運搬船から海へ投げ出され、猛烈な勢いで流されていく一名の姿が映った。
「要救助者一名、流されます!」
「間、スキン装備で海面を拾え! ボートのロープから絶対に手を離すなよ!」
佐々木班長の怒号を受け、大輔はフィンと目元用のツインマスクのみの状態で海面へと飛び込んだ。
激流が全身を横殴りに薙ぎ払う。大輔は教本通り、後方から接近して溺者の中型犬の胸元へ右腕を回し、クロスチェストキャリーで抱え込んだ。激しい流れの中、意識朦朧と暴れる犬を水面で支えるだけで、全身の筋肉がきしむ。ボートから伸びる命綱にしがみつき、浮力を保つだけで精一杯だった。
その時、水面下から信じがたい光景が突き上がってきた。
沈みかけた船体の陰から、神田が、両腕で残る二名のライフジャケットの襟首を一本ずつ鷲掴みにして浮上してきたのだ。
暴れる隙すら与えない、万力のような握力。
鍛え上げた首回りと僧帽筋がドライスーツを裂かんばかりに盛り上がり、極太の短い脚が、流れを真っ向から踏み砕くような重いフィンキックを放つ。大人の獣人二人を両腕にぶら下げたまま、神田は濁水の中を、反流の筋に乗ってぐんぐん浮上していく。
水の抵抗など、最初から存在しないかのようなトルク。
(……嘘だろ!? 二人同時に……この激流の底から引き揚げているのか……!?)
大輔は歯を食いしばり、抱えた一名の命を落とさぬよう、裂けそうな肺を酷使してキックを打ち続けた。
水面で一人を支えるだけで、血を吐くような苦痛だ。舞鶴で磨き上げた「無駄のない技術」の、さらに上を行く異端の肉体が叩き出す、暴力的なまでの救命力。
バシャアァッ!
大輔が這うようにして自分が確保した一名をボートへ引き上げたとき、隣ではすでに二名を放り上げた神田が、特注フルフェイスのフラットなレンズ越しに黒目を光らせ、何食わぬ顔で手元の残圧計を確認していた。
「神田先輩……!」
「俺のエアは百三十だ。船内区画にもう一人残ってる。休む暇なんざねえぞ」
大輔は息を呑んだ。
普通なら、激流に逆らって二名のデッドウェイトを引き揚げれば、息が上がってシリンダーの空気を半分以上消費していてもおかしくない極限状態だ。それなのに、このパグは心拍数を一切上げていない。愛玩犬特有の『闘争心のなさ』がもたらす、異常なまでの空気消費効率。
神田は通信機越しに低く言い放つと、躊躇なく再び濁流の底へ消えていった。
大輔はボートの上で、その圧倒的な泡の筋を見つめることしかできなかった。
自分は、水面で一人を支えるので手一杯だった。体格を言い訳にせず、懸命に技術を磨いてきたはずの大輔の目の前に、現場の「本物の化け物」の背中が、絶望的なまでの実力差となって立ち塞がっていた。




