第18話 爆圧の浮上と、帰るべき場所
第2部 第18話:爆圧の浮上と、帰るべき場所
激流の海面。傾いた砂利運搬船のすぐ脇に寄せたゴムボートの縁で、神田が濁った水面を見据えていた。
黒い特注のフルフェイスマスク越しに、研ぎ澄まされた瞳が大輔を射抜く。
『ここから先は、俺が一人で船内区画へ入る。お前はボートの上でこの索を持て』
命綱の端が、ボートに残る大輔の手に押し付けられる。
『二回強く引いたら、揚収の合図だ。ボートから絶対に手を離すな。俺の真上を空けるなよ、新米』
「……了解。真上は、自分が死守します!」
神田の黒い影が、水深七メートルの暗い開口部へと滑り込んでいった。
索が、掌の中をじりじりと滑っていく。大輔はボートのチューブに両足を踏ん張り、索を握り締めたまま激流の海面を睨みつけた。
数十秒が、数時間にも感じられた。
その時、ボートの下の海中から、ごぼり、と不気味な音がした。
直後、掌の索が、強烈な力で「二回」、明確に引かれた。
――緊急揚収!
「神田先輩ッ!」
大輔は渾身の力で索を引いた。同時に、船体の奥で隔壁が水圧に耐えかねて裂ける轟音が響いた。閉じ込められていた大量の空気が、行き場を求めて一気に噴き上がる。
ドズンッ! と腹の底を殴りつけるような衝撃が、海面を突き上げた。
ボートの周囲の海面が白く沸騰し、大輔はゴムボートごと弾き飛ばされそうになるのを必死に堪え、チューブにしがみついた。
だが、真の恐怖はその直後だった。
空気を吐き出し浮力を失った砂利運搬船が、金属がへし折れる絶望的な軋み音とともに、巨大な引き波(渦)を引き起こしながら瀬戸内の海底へ急速に沈み始めたのだ。
「神田先輩ァッ!」
大輔が身を乗り出して叫ぶ。
ボートごと渦に引きずり込まれそうになる猛烈な引力。船内の空気の噴出と、沈む船体が引き起こす引き波のコンボに巻き込まれれば、いかなるダイバーも生還は難しい。
海面には、重油の黒い染みと、ちぎれたロープが浮かぶばかり。
十秒、二十秒。長く絶望的な沈黙が、海を支配した。
「……くそっ、俺が潜る!」
大輔がマスクを被り直し、海へ飛び込もうとした、まさにその刹那。
ズバァァァッ!
目の前で、巨大な気泡の塊とともに、黒い塊が海面を打ち破って飛び出した。
「ブハァッ……! ゴホッ、ゲホッ!」
潰れたマズルから荒々しく海水を吐き出し、強烈な呼気を響かせたのは、神田だった。
噴流に特注マスクを剥ぎ取られ、素顔を晒している。だがその極太の左腕には、意識を失った最後の一人――作業着姿の犬が、固くがっちりと抱え込まれていた。
引き波から逃れるため、神田はウェイトベルトを緊急投棄し、BCDの浮力を最大まで膨らませて、強引に水面を突き破ってきたのだ。
「神田先輩!」
「……ボサッとすんじゃねえ、新米! 引き揚げろ!」
神田のドライスーツは破片で数か所が裂け、額からは血が滲んでいた。だがその黒い瞳は少しも濁らず、生還者の執念に燃え盛っていた。
大輔は無我夢中で腕を伸ばし、要救助者をボートへ引きずり上げた。
直後に神田も自力で這い上がり、仰向けに倒れ込んで分厚い胸を激しく上下させる。パグ特有の「フゴッ、フゴッ」という濁った呼吸音が、今はどんな凱歌よりも力強く響いていた。
「……最後の一名、揚収完了! 全要救助者、確保しました!」
大輔の無線の声が、夕闇の迫る来島海峡に響き渡った。
数時間後。
すべての任務を終え、広島・呉の母港へ帰還した「ながら」の甲板は、重い疲労と安堵の空気に包まれていた。
救出された船員たちは全員が命を取り留め、救急車へ引き継がれた。大輔はロッカー室で、冷え切った作業服に着替えながら、隣で無造作にタオルで頭を拭く神田の背中を、畏敬の念をもって見つめていた。
あの空気の奔流と引き波の中から、要救助者を抱えたまま生還する。技術を超えた、理屈に合わない生命力の証明だった。
「……何見てんだ、大輔。俺の背中に穴でも開いてたか?」
「いえ……神田先輩は、やっぱり化け物です」
「ふん。チビがチビを褒めてどうする。お前も今日は足手まといにならなかった。索から手も離さなかったな。初日にしては上出来だ」
神田は短く鼻を鳴らし、私服のジャンパーを羽織った。
すっかり日が落ちた港。
潮風に吹かれながら、二人は重い足取りで庁舎のゲートをくぐった。
緊張の糸が切れ、大輔の全身の筋肉が今になって悲鳴を上げ始める。寮に帰って泥のように眠りたい。そう思った矢先だった。
「パパー!」
甲高い、鈴を転がすような声が響いた。
ゲートの外、街灯の薄明かりの下で、小さな影が懸命に手を振っていた。その後ろでは、預かってくれていたらしい近所の老犬が、軽く会釈をしている。
駆け寄ってきたのは、まだ幼いパグの女の子だった。神田と同じ潰れた愛嬌のある鼻先に、くるんと丸まった尻尾がちぎれんばかりに揺れている。
「おお、アミ。迎えに来てくれたのか」
それまで岩塊のように無愛想で、現場では鬼神のごとき力を見せていた神田の顔が、一瞬でだらしなく崩れた。
神田は膝をつき、激流をねじ伏せたその分厚い両腕で、小さな娘の体をふわりと優しく抱き上げた。互いの潰れた鼻先を擦り付け合い、無事を確かめるように匂いを嗅ぎ合う。
「パパ、今日はお仕事長かったね!」
「ああ、ちょっと海で手こずってな。いい子で待ってたか?」
「うん! お腹すいた!」
神田は娘の頭を大きな掌で撫で回し、それからポカンと立ち尽くす大輔を振り返った。
「こいつはアミだ。俺の娘だよ」
「む、娘さん……!? 神田先輩、ご結婚されてたんですね……」
「妻は数年前に病気でな。今は俺とこいつの二人暮らしだ」
シングルファザー。
その言葉の重みに、大輔は言葉を失った。
危険と隣り合わせの潜水士。いつ自分の命が海の底へ消えるか分からない修羅場に立ちながら、この小さな命をたった一人で育てているというのか。
「……俺が死んだら、こいつは独りになる」
神田はアミを抱いたまま、低く、穏やかな声で言った。
「だから俺は、海で絶対に死ぬわけにはいかねえ。そして、誰の家族も、俺の目の前で死なせるわけにはいかねえんだよ」
大輔の胸の奥で、何かが熱を帯びた。
この犬が異形の体に鞭打って命を懸ける理由は、いま、小さなパグの娘の笑顔となって目の前にある。
「お兄ちゃんは、お名前なんていうの?」
アミが、神田の腕の中から不思議そうに大輔を見下ろした。
「パパの新しいお友達?」
「……いや」
大輔は背筋を伸ばし、その小さな女の子に向かって、真剣な顔で頭を下げた。
「俺は大輔。お父さんにしごかれてる、新米の船乗りだ。でも、いつか必ず銀のバッジを獲って、お父さんの背中を守れる本物のバディになってみせるよ」
「バディ? かっこいい!」
神田が「百年早いぞ、新米」と鼻を鳴らして笑う。
大輔もつられて吹き出した。
かつてプールの底で小さな命を救えなかったビーグルが、今度は信頼を寄せる先輩の「帰るべき場所」を守り抜くため、再び瀬戸内の海へ向かう理由を見つけた夜だった。




