第19話 現場の鎖、家族の亀裂
第2部 第19話:現場の鎖、家族の亀裂
呉の港町の夜は、潮の匂いとともに急速に静まり返っていく。
海沿いのファミレスのボックス席。テーブルには、アミの頼んだお子様ハンバーグプレートと、大輔と神田の前に置かれた熱い黒豆茶のグラスが二つ並んでいた。犬の代謝に配慮されたノンカフェインの茶の湯気が立ち上る向こうで、アミが無邪気にポテトを頬張る姿を、神田は目尻のシワを深くして見守っている。
「……神田先輩」
大輔は、着任の挨拶のあとに佐々木班長から聞いた話を反芻しながら、思い切って切り出した。
「先輩は、数年前の呉の潜水技術研修を歴代トップで修了したと聞きました。でも……本当は、沿警大の本科卒なんですよね」
神田の手が、わずかに止まった。
舞鶴の学校を出た大輔たちノンキャリアとは違う、呉の沿岸警備大学校を出たエリート幹部候補生。本来なら順調に階級を上げ、本庁の警備救難部で要職に就くか、大型巡視船の副長、船長のコースに乗っていなければおかしい年次だった。
「……佐々木の野郎、余計なことをベラベラと」
神田は潰れた鼻からふうと息を漏らし、アミの口元のソースをペーパーで優しく拭った。
「沿警大を出たからって、全員が白い制服を着てふんぞり返りたいわけじゃねえよ。俺の居場所は、暗闇のヘドロの中だけだ」
「どうして、そこまで現場の潜水士に固執するんですか。本庁からの幹部ポストの打診を、何度も蹴り続けていると聞きました。人事課が黙っていないはずです」
真っ直ぐな問いに、神田はしばらく黙り込んだ。
やがてアミに聞こえないよう身を乗り出し、分厚い掌で茶のグラスを包み込みながら、濁りのない黒い瞳を大輔へ向けた。
「……沼田っていう、バディがいたんだ」
低く、重い響きだった。
「俺と同じ沿警大の同期で、土佐犬のデカい男だった。体格も潜水技術もピカイチで、口の減らない憎まれ口ばかり叩く奴だったが……組んで五年、あいつと潜ればどんな修羅場も怖くなかった」
「その沼田先輩は……今、どこに?」
「陸だ。今は第六管区本部の運用司令センターで、マイクを握って、現場の無線を聞いてる」
神田は苦い表情で目を伏せた。
「三年前、安芸灘で起きたケミカルタンカーの座礁事故だ。有毒ガスと火災、そして急速な浸水。区画に進入した時、爆風でへし折れた鋼鉄のハッチが、沼田の右肩と背骨を直撃した。……あいつは俺を外へ突き飛ばして脱出路を開いたが、神経をひどく損傷した。潜水士の資格を剥奪されて、陸上勤務へ回された」
大輔の喉が鳴った。
(鬼頭教官も、そうだった……)
舞鶴で出会った、あの恐ろしい土佐犬の恩師。海は、どれほど強靭な肉体と技術を持つ大型犬であっても、容赦なくその牙で砕いてしまうのか。鬼頭が語っていた「相棒を失った者の地獄」が、ここでもまた別の形で横たわっていた。
「病院のベッドで、全身にギプスを巻いた沼田が言ったんだよ。『神田、俺は絶対にもう一度海に戻る。だからお前は現場で待ってろ。エリートコースなんざに逃げたら、一生呪ってやるからな』ってな」
神田は自嘲するように口元を歪めた。
「笑えるだろ。あいつがリハビリで激痛に耐えて、必死に指先を動かそうとしてるのに、俺だけが安全な本庁の、エアコンの効いた部屋で書類にハンコを突いて、キャリアを積めると思うか? 沼田がもう一度フィンを履いて戻ってくるまで、俺が現場の席を温めておく。それが、あいつに生かされた俺の筋ってもんだ」
大輔の胸が、締め付けられた。
病室の約束は、起請文のように神田を縛っている。言った本人も、守る本人も、いまなお海の外と中で、それを果たそうとしていた。
「……じゃあ、さっきの『妻は病気で』っていうのは……」
「ああ」
神田はアミの頭を撫でながら、さらに声を落とした。
「アミには病気でいなくなったと誤魔化してる。……本当はな、愛想を尽かされて、離婚されたんだよ」
淡々とした声だったが、その奥にどれだけの血が流れたか、大輔には想像もつかなかった。
「妻は、俺が幹部になって、危険な潜水士を降りてくれるのをずっと待ってた。結婚してアミが生まれて……それでも俺は、沼田との約束を理由に現場に残り続けた。夜中に非常招集で飛び出して、いつ骨になって帰ってくるか分からない暮らしだ。本庁への異動の内示を、俺が勝手に断った日、妻は泣き叫んで言ったよ。『あなたの命は、友達のものなの!? 家族は二の次なの!?』ってな」
「…………」
「正論だよ。父親としても、夫としても、俺は落第だ。……妻は実家に戻った。それでもアミだけは、俺が引き取った。こいつだけは、この手で絶対に飢えさせず、誰よりも幸せにしてやるって決めたんだ」
神田の分厚い掌が、アミの小さな手を包み込む。
アミは父親の重い空気を感じ取ったのか、不思議そうに首を傾げ、「パパ、おいしいよ」と笑いかけた。
神田は顔の深いシワをくしゃくしゃにして、「そうか、いっぱい食え」と相好を崩した。
現場に留まり続けるための、重すぎる代償。
バディとの誓いを守るためにキャリアを捨て、家庭を壊し、それでもなお一人娘の未来を背負って、激流の底へ飛び込んでいく。
目の前のパグの男は、ただの「筋力のあるベテラン」ではなかった。
不器用で、頑固で、一度握った命綱を、死んでも離せない。あまりにも純粋で、孤独な「本物の潜水士」だった。
「神田先輩」
大輔は背筋を正し、湯気の消えた黒豆茶のグラスを両手で握りしめた。
「俺……絶対に銀のイルカを獲って、先輩の隣に立てる『本物のバディ』になってみせます」
神田は目を丸くし、それからフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「バカ言え。お前が一人前になるまで、俺の肩の荷は降りねえんだよ。……明日はお前、非番だろ。朝六時から、来島海峡の逆潮を想定した耐流潜水に付き合わせてやる。遅刻したら、空気の詰まったスチールシリンダーを背負わせて呉の山を走らせるからな」
「はい! 望むところです!」
ファミレスの窓の外。暗い夜空に向かって、山の中腹の通信鉄塔で明滅する赤い航空障害灯が、現場の海と陸とを繋ぐように、規則正しい光を放ち続けていた。




