第20話 滲む視界、託される光
第2部 第20話:滲む視界、託される光
来島海峡の死闘から数日が過ぎた。
呉の総合病院、眼科診察室。
薄暗い室内で、神田は眼底の断層画像を見つめていた。
「……気圧外傷による眼底出血、および網膜剥離の初期症状です」
医師の宣告は、冷徹な死刑宣告に等しかった。
「先日の救難現場での急浮上が原因でしょう。網膜の中心部が水圧で物理的に剥がれかけており、視界の歪みと暗転を引き起こしています。日常の視力は手術で回復するかもしれませんが……」
医師は、手元のカルテに目を落とした。
「二度と、深くは潜れません。次に急激な水圧変化を受ければ、完全に失明します。……潜水士としての復帰は、絶望的です」
神田は、無言で特注のフルフェイスマスクを握りしめた。
分かっていた。あの来島海峡の船底で、エアーを要救助者に全開で送り込み、ブラックアウト寸前で浮上した時、自分の眼球が圧力で悲鳴を上げていたことなど。
「……治らねえのか」
「申し訳ありません」
神田は短く息を吐き、静かに診察室を出た。
沼田との約束。娘のアミ。特救隊への未練。
すべてを繋ぎ止めていた「銀のイルカ」が、今、完全に手の中から滑り落ちた。
* * *
深夜の巡視船「ながら」の船内。
当直を外れ、潜水任務からの無期限除外を佐々木班長から言い渡された神田は、人気のない後部甲板の暗がりを歩いていた。
視界の右半分が、黒い泥を塗られたようにぼやけている。
その時、船尾に繋留された海面下から、異様な水音が聞こえた。
ザバァッ……ザバァッ。
神田が甲板から見下ろすと、照明の落ちた夜の海で、一匹のビーグルが狂ったようにフィンキックを繰り返していた。
間大輔だ。
安全索を船体に結びつけ、六ノットの潮流を想定した姿勢維持の訓練を、一人で黙々と続けている。
だが、そのフォームを見て、神田の片目が大きく見開かれた。
大輔は、教科書通りの泳ぎ方をしていない。先日の来島海峡で神田が見せた「樽型の胴体で潮流を逃がす、パグ特有の異形の潜水フォーム」を、自らのビーグルの骨格に強引にアジャストさせようと模倣していたのだ。
だが、骨格が違う。大輔は浮力の制御を誤り、バランスを崩して海水を飲み込み、激しく咳き込んでいた。
「……ゲホッ、ガハッ……! くそっ、違う、あのバケモノはもっと重心が……」
大輔が再び潜ろうとした瞬間、甲板の上から冷たい声が降ってきた。
「腰の位置が高えんだよ、新米」
大輔が弾かれたように見上げると、神田が手すりに寄りかかり、見下ろしていた。
「俺たちみたいなチビが海流を殺すには、腰をあと三度落とせ。フィンの蹴り幅を半分にして、回転数で稼げ。お前の長い手足で俺の真似をすれば、水の抵抗でエアーを浪費するだけだ」
「……神田、先輩」
大輔は海面に顔を出したまま、息を呑んだ。
神田の右目は、焦点が合っていなかった。
「先輩、その目……」
「……潜水士は、もう廃業だ。次に潜れば失明するとよ」
神田は、海に向かって乾いた笑いを吐き捨てた。
「パグのくせに海に挑んで、家族を壊して、相棒の呪いを背負って……結局、俺の海はここで終わりだ」
その背中は、果てしなく小さく、老いぼれて見えた。
だが、海面に浮いた大輔の目には、同情など微塵もなかった。
「……なら、あんたの技術、全部俺に寄越せ」
神田が、片目を眇めた。
「あんたが海で培った技術も、執念も、チビがデカブツを出し抜くための悪知恵も、全部俺が食ってやる」
大輔は、獣のようなギラついた目で神田を睨み上げた。
「あんたが行けなかった特救隊の席は、俺が実力で奪い取る。だから、失明する前に全部俺に叩き込め」
それは、教えを請う後輩の顔ではない。飢えた猟犬が、獲物の血肉を貪ろうとする残酷で純粋な野心だった。
神田は、しばらく大輔を無言で見下ろしていたが、やがて腹の底から湧き上がるような、獰猛な笑い声を上げた。
「……ハッ。言うようになったじゃねえか、新米」
神田は甲板のへりに身を乗り出し、残された左目で大輔を真っ直ぐに射抜いた。
「いいだろう。俺の海は終わったが、お前の体に俺の業を全部刻み込んでやる。明日から吐くまでしごいてやるから、覚悟しておけ」
「……望むところだッ!」
夜の広島湾。
視力を失いゆく歴戦のパグと、飢餓感を燃やす小柄なビーグル。
海に魅入られた狂気と業のバトンが、今、静かに、そして暴力的に受け継がれた。




