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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第21話 音戸の瀬戸を越えて

第2部 第21話:音戸の瀬戸を越えて

 神田による地獄のマンツーマン特訓が始まってから、八か月が過ぎていた。

 朝の課業前、水圧に耐える心肺機能の強化。夜の消灯前、凍える水温のプールでの、完全遮光・狭隘区画脱出訓練。

 大輔の肉体は削ぎ落とされ、研ぎ澄まされていった。

 かつて力任せに煽っていたフィンワークは、水流の乱れをミリ単位で捉えて推進力へ変える、滑らかなストロークへと変貌した。神田直伝の「完璧な中性浮力の維持」と「抵抗を削ぎ落とした姿勢」により、無駄な筋肉の酸素消費が消え、シリンダーの空気消費量は沿警校時代の半分近くまで抑え込まれていた。

 来春。大輔はついに、広島・呉で行われる本物の「潜水技術研修」へ送り込まれることが内定していた。

 神田の右目の視界は、日を追うごとに滲みを増していたはずだ。

 だが、そのパグの背中は、一度として揺らがなかった。陸で見せる不器用な父親の顔を完全に隠し、プールサイドに立てば非情な教官として、己が現場で培ってきた「生き残る技術」のすべてを、大輔の骨の髄へ容赦なく流し込み続けた。

 そして――肌を刺すような寒波が瀬戸内を覆った、十二月のある朝。

 大型巡視船「ながら」の船内スピーカーが、非常呼集のブザーの連打で空気を切り裂いた。

『――緊急入電! 総員、配置につけ! 呉発・松山行きの旅客フェリーが座礁! 繰り返す、旅客フェリーが座礁!』

 航海科の居住区にいた大輔と、陸上待機から事務引き継ぎの書類を出しに船へ来ていた神田は、弾かれたように顔を上げた。

 通信士の緊迫した声が続く。

『フェリーは音戸の瀬戸を抜け、安芸灘へ出た直後の海域、情島(なさけじま)北東沖の暗礁に乗り上げた模様! 船底に破孔、機関室および車両甲板へ急速浸水が発生中! 乗客乗員、約百二十名! 「ながら」潜水班および航海科は、全装備を着装のうえ現場へ急行せよ!』

「……音戸を抜けた先だと!?」

 神田が血相を変え、立ち上がった。

 音戸の瀬戸――本州と倉橋島を隔てる、幅わずか九十メートルの狭水道。そこを抜けた直後の海域は、潮の干満で急激に流速が跳ね上がり、海底には複雑な暗礁が牙を剥く、瀬戸内でも有数の難所だった。

 ましてや冬の十二月。水温は十四度前後まで下がり、北西からの季節風が容赦なく吹きつける。百名を超える乗客を乗せた大型フェリーが浸水、傾斜すれば、未曾有の大惨事になることは火を見るより明らかだった。

 神田が踵を返し、下船用のタラップへ向かおうとしたその時、廊下のスピーカーから小島船長の冷徹な声が響いた。

『神田。貴様、まだ船内にいるな』

「……船長」

『百二十名の大海難だ。猫の手も借りたい。貴様の目は知っているが、水中に潜らず、海面でボートの舵を握るだけならどうだ』

「……見えますよ」

『よし。本庁からの内示が出るまでは、まだ貴様は私の部下だ。船長権限で特例乗船を許可する。海には絶対に入るな。ボートの操船と水面揚収だけを担当しろ』

 通信が切れる。神田の瞳に、強烈な光が戻った。

「大輔、ボヤボヤすんな! 五分で後甲板のボートを準備しろ!」

「了解ッ!」

 大輔は無駄のない動作で、冬用の防寒作業服と水面用のウェットスーツへ身を滑り込ませた。

 後甲板へ駆け上がると、巡視船「ながら」のツインディーゼルが咆哮を上げ、港内を抜けるや一気に増速した。白波を切り裂き、灰ヶ峰を背にして船体が大きく軋む。

 だが、三千トン級の巨躯を誇る「ながら」は、あの狭い音戸の瀬戸を通り抜けることはできない。情島沖へ到達するには、大回りの迂回ルートをとるしかなかった。到着までの数十分のロスが、要救助者たちの命の砂時計を容赦なく削り落としていく。

 船橋から下りてきた佐々木班長が、防寒外套の襟を立てながら、空気呼吸器のシリンダーを背負う潜水班の面々に指示を飛ばしていた。その視線の先で、神田と大輔が第二救難艇(ゴムボート)の固定索を解いている。

「現地の気象は北西の風十二メートル、波高二メートル。潮流は下げ潮で三・五ノットだ。フェリーは右舷へ十五度傾斜。船首が暗礁に乗り上げたまま潮に押され、今にも横転、沈没の危険がある」

 佐々木は振り返り、苦渋に満ちた顔で神田を睨みつけた。

「……神田。お前はドクターストップの身だ。そして間、お前はまだ無資格だ。本来なら、現場の最前線に出ることすら許されん」

「…………」

「だが……百二十名の命が冬の海へ投げ出されようとしている今、船上で戦力を遊ばせている余裕はない。船長の了解は取った。俺たち有資格者は、船内へ突入して逃げ遅れを捜索する」

 佐々木は神田の胸を強く突いた。

「神田、お前は絶対に海中へは潜るな。第二救難艇を操船し、海面に飛び込んだ乗客の『水面揚収』に専従しろ。そして間。お前はボートの上から、神田が確保した要救助者を引き揚げろ。お前も海へは飛び込むな。……神田、お前の目は今、どうなっている」

「右目のど真ん中が真っ黒で、歪んでやがりますね。……だが、波間に浮いてる命の輪郭だけは、はっきり見えますよ」

 神田が低く答え、ボートの船外機を撫でた。

 佐々木は短く息を吐き、「頼んだぞ」と頷いた。

 神田は無言で操舵席に座った。その右目は、寒風の中でわずかに細められていた。

 大輔には分かっていた。右側から波に煽られたり、右舷側に要救助者が現れたりした場合、今の神田の視界では対応が致命的に遅れる危険がある。

「神田先輩」

 大輔はボートの舳先に立ち、誰にも聞こえないよう低く囁いた。

「……俺が、先輩の右目になります。右舷の死角は全部、俺が見ます」

 神田は一瞬だけ手を止め、潰れたマズルをフンと鳴らした。

 そして分厚い拳で、大輔の背中をゴツンと力強く叩いた。

「生意気言うな、新米。……指示に一秒でも遅れたら、その場で冬の海へ蹴り落とすからな」

 大型巡視船「ながら」の舳先は、音戸大橋の赤いアーチを遠くに望みながら大回りの針路をとり、荒れ狂う安芸灘へ突入していく。

 冬の鉛色の海。

 百二十名の命が揺れる座礁船へ向けて、陸へ上がるはずだったベテランと、これから資格を掴み取る若きビーグルが、一つの視界を共有し、その牙を極限まで研ぎ澄ませていた。

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