第22話 再会の煙幕、浸水迷宮
第2部 第22話:再会の煙幕、浸水迷宮
安芸灘の海面は、吐き出された重油と砕け散る白波で、どす黒く濁っていた。
座礁した旅客フェリーは右舷へ二十度近く傾斜し、切り立った暗礁に腹を裂かれたまま、激しい潮流に煽られてギチギチと悲鳴のような軋み音を立てている。
百二十名いた乗客のうち、上甲板にいた大半は、駆けつけた小型巡視艇や救命いかだへ避難しつつあった。だが、最悪の報告が無線を通じて、「ながら」の船橋を凍りつかせた。
『――機関室および下層車両甲板に多数の破孔! 急速浸水により防水扉が変形、閉鎖不能! 下層客室および車両甲板付近に、逃げ遅れた乗客数名の反応あり!』
「この船が完全に転覆すれば、周囲の救難艇ごと水底へ引きずり込まれるぞ!」
「ながら」の小島船長がマイクを握りしめ、船橋から叫んだ。
佐々木班長率いる本船の潜水班だけでは、広大な浸水船内の捜索、救助など到底手が足りない。
その時、呉港方面から、全速力で波頭を蹴立てて接近する灰色の船影が現れた。
ジャパウ海上防衛隊の水中処分母船だ。
未曾有の事態に対し、呉地方総監部から防衛隊法に基づく災害派遣命令が下り、即座に増援として送り込まれてきたのだ。
『海上防衛隊・呉水中処分隊、現場海域へ到達! これより沿警潜水班と合同で、下層甲板への区画進入を開始する!』
複合型ゴムボートが波を割り、激しく傾斜したフェリーの車両搬入口へ突進する。すでに半分が海水に呑まれ、滝のような濁流が流れ込んでいる開口部だ。
水面揚収任務のため、搬入口スレスレにボートをつけて待機していた大輔と神田の横へ、海防のボートから軽やかに身を乗り出してきた、黒いドライスーツ姿の影があった。
「うわ、すっげえ勢いで沈みかけてんじゃん! ……ったく、来春からの沿警への移籍が内定して、今日まさに隊長へ辞表を出そうかって矢先に、洒落になんねえな!」
聞き覚えのある、底抜けに陽気な声。
ダイビングマスクを額に押し上げ、濡れたトライカラーの毛並みと大きな垂れ耳を揺らして白い歯を見せたのは――。
大輔の瞳が見開かれた。
「……明!?」
「よっ、大輔! それに神田さんも! 舞鶴以来だな!」
明は背負った爆発物処理用の閉鎖循環式呼吸器を軽く叩き、屈託のない笑みを浮かべて手を差し出した。
「お前、防衛隊の水中処分員がどうしてここに!?」
大輔が驚愕の声を上げると、明はあっけらかんと肩をすくめた。
「災害派遣要請だよ。俺たち海防のEODも、機雷の信管を抜くのと同じくらい、生きてる人間を水底から引っ張り上げるのは得意なんでね。まさか移籍する前にこんな修羅場で、沿警と肩を並べるたぁ思わなかったぜ!」
防衛隊の最精鋭・水中処分員としての極限の潜水技術。そして何より、彼らが背負う排気泡を出さない特殊装備。流された車両のタンクからガソリンが漏れ、気化して充満しているかもしれない閉鎖空間において、無用な排気(酸素)を出さず引火・爆発のリスクを抑え込めるこの機材は、まさにこの現場における最強の切り札だった。
相変わらずの規格外ぶりに大輔が圧倒されていると、横で命綱を握っていた神田の低い鼻息が響いた。
「おい、若僧ども。同窓会なら、陸の居酒屋でやれ」
神田が特注フルフェイスの平面レンズ越しに、右目の死角をカバーするように首を動かし、海防の若きダイバーを睨みつけた。
「船体の傾斜が二十二度を超えた。車両甲板に流れ込んだ大量の海水が、船を振り子のように揺らしてる。竜骨が暗礁から外れれば、あと十分で完全に横転して海の底だ。おまけに中は、流された車と漏れ出したガソリンの揮発ガスが充満する地獄だぞ。……明、潜れるか」
「海防を舐めないでくださいよ、神田さん。暗闇の捜索は俺たちの本職だ」
明の表情から、瞬時に軽薄さが消えた。暗礁に埋まる機雷と対峙してきた、研ぎ澄まされた戦士の眼光が宿る。
神田は頷き、大輔の肩を強く叩いた。
「いいか。船内への突入は、閉鎖式装備を持った明たち海防EODに任せる。俺と大輔は絶対に潜らない。だが、明たちが搬入口の縁まで引きずり出してきた要救助者は、俺たちがこのボートの上から力ずくで引き揚げる。一秒でも遅れたら、全員まとめて海の底だぞ」
「了解!」
組織の壁を越えた、極限の連携。
「行くぞ!」
明たち海防のダイバーが、激流が渦を巻きながら雪崩れ込むフェリーの下層甲板――暗黒の浸水迷宮へと身を躍らせた。
大輔は揺れるゴムボートの舳先に立ち、神田の右の死角を完全にカバーしながら、濁流の奥から繋がれる命のバトンを、息を詰めて待ち構えていた。




