第23話 火種と業火
第2部 第23話:火種と業火
非常用電源の赤い警告灯が明滅する下層車両甲板は、地獄のような様相を呈していた。
船体が二十度以上も傾斜しているため、固定チェーンの千切れた大型トラックや乗用車が重い金属音を響かせて滑り落ち、ひしゃげた隔壁に折り重なっている。足元には、暗礁に開いた破孔から海水が激しい勢いで流れ込み、すでに膝の高さまで達していた。
水没した通路を抜け、搬入口から最も奥まった空気のある区画へ顔を出したのは、ジャパウ海上防衛隊の水中処分員・明たちだった。
排気泡を出さない閉鎖循環式呼吸器を背負い、連絡索を引いて瓦礫の海を前進する。
だが、水面の上に漂っていたのは、潮の匂いだけではなかった。
『……ガソリンだ!』
水中通話機越しに、明の押し殺した声が響く。優れたハウンドの嗅覚が、マスクの隙間から伝わる僅かな異臭の気配を嗅ぎ分けていた。
押し潰された軽トラックの燃料タンクが裂け、虹色の油膜が水面を覆い尽くしている。換気の止まった閉鎖甲板の天井には、気化した高濃度のガソリン蒸気(揮発ガス)が分厚く滞留していた。
『「ながら」指揮所、こちら海防・桧垣。車両甲板、ガソリン蒸気が充満。完全に爆発限界内です。静電気一つで吹っ飛びます』
明は防爆ライトの光量すら絞り、極限まで慎重に足を運んだ。
その時、押し潰されたコンテナの陰から、くぐもった咳き込みが聞こえた。
ライトを向けると、横転した軽乗用車と鉄骨の間に下半身を挟まれた、中年の犬がいた。顔中血まみれで、虚ろな目をして天井を見上げている。大量出血と激痛による重度のショック状態だ。
『要救助者発見! コンテナ奥、一名!』
明が声を押し殺して駆け寄ろうとした、その刹那だった。
挟まれていた男は、意識の混濁した手つきで懐を探り、ひしゃげた箱から一本の煙草を取り出して口元に咥えた。自分が今、沈みゆく船のガソリン溜まりにいることすら理解できていないのだろう。ただ、死の恐怖と凍える寒さから逃れるため、長年染みついた「一番安心する日常のルーティン」へ無意識にすがりついてしまったのだ。
震える指が、ポケットから使い捨ての百円ライターを引き抜く。
(――ッ!!)
明はリブリーザーのマウスピースを咥えたまま、声にならない絶叫を上げ、全身をバネにして男の手を払い落とそうと跳躍した。
だが、届かない。
男の親指は、すでに無慈悲なヤスリを擦り下ろしていた。
カチッ。
微小な火花が散った。煙草に火が点くより早く、その一粒の火花が、高濃度に充満したガソリン蒸気に噛みついた。
青白い閃光が、甲板の空間を一瞬にして白く染め上げる。
明は空中の姿勢のまま要救助者の確保を諦め、生存本能のすべてを懸けて、足元の濁水の中へ顔から真っ逆さまに突っ込んだ。
直後。
ドゴォォォォォンッ!!
猛烈な爆燃が、車両甲板全体を吹き荒れた。
一方、フェリーの車両搬入口スレスレで救難艇を待機させていた大輔と神田にも、その絶望の余波は容赦なく襲いかかった。
搬入口の奥から、空気を震わせる地鳴りのような爆音とともに、紅蓮の炎と熱波が猛烈な勢いで噴き出してきたのだ。
「伏せろッ!」
神田の怒号とともに、分厚い拳が大輔の胸倉を掴み、ゴムボートの底へ引き倒した。
頭上を強烈な熱波が舐め尽くす。ボートが大きく煽られ、爆風で海面がすり鉢状にえぐられた。大輔はボートのチューブの命綱にしがみつき、ゴムの焼けるような熱に顔を歪めながら耐えた。
数秒の後、炎の噴出が収まり顔を上げると、フェリーの搬入口からはもうもうと黒煙が噴き出していた。
気密された船内は、浸水の地獄から、一瞬にして酸素を食い尽くす火炎地獄へ暗転したのだ。引火した車両のタイヤが次々と破裂する音が、くぐもった連続音となって海上に響く。
「明……! 明ェッ!!」
大輔が黒煙の噴き出す搬入口に向かって絶叫する。
だが、炎の爆ぜる音と激しい潮騒に掻き消され、返事はない。
急速に浸水する冷たい海水、吹き荒れる有毒ガス、そして逃げ場のない鉄の箱を焼き尽くす業火。防衛隊の若きダイバーの退路は、燃え上がる炎の壁によって完全に断たれてしまった。




