第8話 潮風とビーグルの鼻
第1部 第8話:潮風とビーグルの鼻
五月末の週末。張り詰めた軍港の街・京都舞鶴にも、少し汗ばむような初夏の陽光が降り注いでいた。
入校から一か月半が過ぎ、ついに初めての私服外出が解禁された日だった。長浜にあるジャパウ沿岸警備学校の重い鉄門をくぐり抜け、連絡バスに揺られて市街地へ出た瞬間、全身を縛りつけていた鉛のような重圧がふっと抜けていく。
朝の起床ラッパも、鬼頭教官の罵声も、鼓膜を締め付ける水圧もない。ただ、港町特有の心地よい潮の香りと、週末の街を行き交う人々の穏やかなざわめきがあるだけだった。
「……シャバの空気なんて、何週間ぶりだろうな」
大輔は薄手のシャツの袖をまくり、初夏の海風を肺いっぱいに吸い込みながら大きく伸びをした。
隣を歩く俊平は、私服であっても糊の利いた清潔なボタンダウンシャツを着込み、周囲の様子をどこか警戒するように観察している。
「気を抜くなよ、大輔。外出許可証は持ったな? 門限は十七時半だ。一分でも遅れれば、来週のプールで腕立て五百回が追加されるぞ」
「わかってるって。せっかくの休みなんだから、もう少し肩の力を抜けよ」
二人は東舞鶴の商店街を抜け、灰色の護衛艦が停泊する湾内を見下ろせる、赤レンガ通り近くのレトロな喫茶店に入った。
テーブルに運ばれてきたのは、タンポポ根を焙煎した代用コーヒーと、犬人の代謝に合わせてネギ類や刺激物を一切排して煮込まれた『まいづる海防ビーフシチュー』だ。湾内に停泊する海上防衛隊の艦艇ごとに受け継がれる、高タンパクな肉の旨味だけを濃縮した一皿である。
毎日プールで塩素水を飲み、海で塩水を啜り続けて荒れ果てた舌には、この濃厚な獣肉の匂いと深い甘みこそが、極限の疲労を癒やす何よりの贅沢だった。
「……塩気以外の匂いを嗅ぐだけで、細胞が生き返るようだ」
珍しく俊平が表情を緩め、銀のスプーンを手にした、その時だった。
大輔のジーンズのポケットで、スマートフォンが低く震えた。画面を見ると、連絡用に登録されたばかりの同期グループからの着信――発信者は、あのラブラドール・レトリーバーの高山だった。
「もしもし、高山?」
『おう、間か。今どこにいる』
受話口の向こうから聞こえてきたのは、ザザッと砕ける波の音と、同期たちの騒がしい声だった。
「東舞鶴の喫茶店だけど……どうかしたのか?」
『西舞鶴で丹後鉄道に乗り換えて、由良の海岸まで来い。潜水選抜に残った十四人で、浜辺で肉を焼いてる』
「は? 俺たちもか?」
大輔は思わず、向かいの俊平と顔を見合わせた。
入校当初、高山をはじめとするエリート大型水猟犬たちは、大輔たちビーグルを「足手まとい」と見下していた。昨日もプールでの罰則組に回された彼らからの、あまりに唐突な誘いだった。
『……買い出しの量を間違えてな。肉が余って仕方ねえんだ。お前らみたいな燃費のいい小型犬を、残飯処理係として呼んでやろうって話になった』
高山はぶっきらぼうにそう言った後、一瞬だけ声を低くした。
『――昨日の海防との合同訓練。防衛隊のビーグルが引いた「反転流のライン」と、それに狂ったように食らいついて離れなかったお前ら二匹の粘りがなけりゃ、俺たちは全員沖へ流されていた。ハウンドの鼻と意地を認めるだけだ。さっさと来い』
プツン、と一方的に通話が切れる。
馴れ合いの世辞などない。ただ、「海の中で互いの命を預けるに足る能力がある」という、使役犬たちの冷徹な実利に基づいた、紛れもない承認だった。
大輔はスマートフォンをしまい、目の前の熱々シチューと俊平の顔を交互に見た。
「……どうする、俊平。由良の浜で、肉の残飯処理だそうだ」
俊平は呆れたように息を吐き、腕時計の文字盤に目を落とした。
「東舞鶴から西舞鶴へ出て、丹鉄に乗り換える。……いいか、ローカル線のダイヤを舐めるなよ。十七時半の門限に間に合わせるには、由良駅を十六時二分に出る上り列車に乗るのがデッドラインだ。滞在できるのはせいぜい一時間半ってところだな」
「一時間半もあれば、腹一杯食えるさ」
俊平は手にした銀のスプーンを置き、恨めしそうにシチューを一瞥してから立ち上がった。
「店員。すまないが、これを二つともドギーバッグ(持ち帰り容器)に詰めてくれ。急ぐんだ」
二人はJR線で西舞鶴駅へ出ると、一両編成のローカル線・京都丹後鉄道へと乗り換えた。
山あいの緑深い由良川沿いをガタゴトと走っていた列車が、やがて視界が開け、川面すれすれを走る長い鉄橋――由良川橋梁へと差し掛かった。河口の向こうに、初夏の若狭湾が太陽の光を反射して眩いばかりに煌めいている。
窓枠に肘をつきながら、大輔はふと、眼下を流れる濃緑色の深い水面を見下ろした。
底が見えない。圧倒的な質量を持った水塊。その暗さを見た瞬間、やはりプールの底の冷たさと、指先から抜けていった体温がフラッシュバックし、胃の奥がせり上がるような悪寒が走る。
水への恐怖が完全に消えたわけではない。一生消えることはないだろう。
大輔は手すりを握る爪がプラスチックに食い込むほど力ませながら、それでも、窓から目を逸らさなかった。水底の暗闇に呑み込まれそうになっても、横を見れば、同じく鉄橋の下の海面を冷徹な眼差しで観察し、潮流の計算をしているバディがいる。
やがて列車が減速し、丹後由良駅のホームに滑り込んだ。
開いたドアからホームへ降り立った瞬間、松林を抜けてくる潮風に混じって、炭火の煙と脂の焦げる強烈な匂いが大輔と俊平の鼻腔をくすぐった。
二人のビーグルの黒い鼻先が、同時にピクンとひくつく。
「……北東、風上五百メートル。焦げた牛脂と、潮風に燻された大型犬たちの濃い獣臭だ」
「ああ。……走るぞ、俊平。滞在時間は九十分だ」
「置いていくぞ、大輔」
手にした紙袋を揺らし、無人の改札を抜けて駅前のステップを駆け下りる二人の足取りは、来るときよりもずっと力強く、獰猛だった。
あの日、孤独と絶望の底で始まった航海。だが今、白波の打ち寄せる砂浜の先には、共に過酷な海を生き抜くための本物の「群れ(パック)」が、彼らを待っていた。




