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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第7話 防衛隊のビーグル

第7話:防衛隊のビーグル

 午後一時、京都・舞鶴。ジャパウ沿岸警備学校の海側に突き出た実海域訓練用の浮桟橋。

 午前の深水プールとは打って変わり、目の前に広がるのは分厚い雲を映して鉛色に濁った舞鶴湾だった。昼過ぎから風が強まり、波頭が白く砕け、五月に入ってなお日本海から吹き込む冷たい海風が、五ミリ厚のウェットスーツの首元から容赦なく体温を削り取っていく。

 ――底が、見えない。

 大輔は揺れる浮桟橋の縁から、黒緑色に澱んだ水面を見下ろした。

 澄んだ青の底に小さな影が沈んでいた、あの日。そして午前中、必死の思いで時計を掴み取った八メートルのプール底。だが、目の前の海には、沈んだものを探す視線すら届かない底なしの暗闇が広がっている。足の裏から、冷たい悪寒のような震えが這い上がってきた。

 午前の無呼吸潜行試験をクリアし、この桟橋に立つことを許されたのは、大輔と俊平の一組だけだった。脱落した高山たち十二名は、今も屋外プールで罰の素潜り百本を強いられている。

 その二人の前に、沖合から低く重厚なディーゼル音を響かせて、一隻の灰色の支援艇が接岸した。

 艇尾に翻っているのは、沿岸警備庁の青いコンパス・マークではない。

 国防の最前線を担う軍事組織――ジャパウ海上防衛隊の軍艦旗である、紅白の八光旭旗だった。

「本日の午後は、近隣の海上防衛隊・舞鶴水中処分隊の育成班との合同海面適応訓練を行う」

 浮桟橋の中央で、右脚を引きずる主任教官の鬼頭が、波音に負けない低く平坦な声で告げた。

「向こうは機雷や不発弾の水中処分(EOD)を生業とする部隊の若手と候補生たちだ。人命救助が本分の我々とは任務が異なるが、潮流と冷水に抗う泳ぎに組織の垣根はない。……いいか、我が校の代表として恥を晒すなよ」

 舫い綱が取られた支援艇から下りてきたのは、全身を黒一色の分厚いウェットスーツで包んだ十名ほどの犬たちだった。

 その体躯と気迫は、沿警校の大型犬たちすら凌駕するほどに凄まじい。傷だらけの屈強なロットワイラーや、筋骨隆々のアメリカン・ピット・ブル・テリア。暗黒の海底でいつ爆発するかも分からない機雷と向き合うため、戦闘犬や大型使役犬から選抜された猛者たちだ。視線が交錯するだけで、潮風の中に火花が散るような殺気が走る。

 その屈強なダイバーたちの最後尾から、軽やかな足取りで浮桟橋へポンと飛び移ってきた犬がいた。

 大輔は思わず目を瞬かせた。

 ――ビーグルだ。

 丸みを帯びた大きな垂れ耳、引き締まったトライカラーの毛並み。自分たちと同じ小柄な体躯でありながら、ウェットスーツ越しにも分かるほど、肩から背中にかけて無駄のない筋肉が隆起している。

 そのビーグルは、周囲の威圧的な大型戦闘犬たちの殺気をどこ吹く風と受け流し、手にした黒いラバーフィンをくるくると回しながら大輔たちの方へと歩み寄ってきた。

「おい見ろよ、あっちにもビーグルがいるぞ!」

 その犬は、大輔と俊平を見るなり琥珀色の瞳を輝かせ、屈託のない笑みを浮かべて駆け寄ってきた。死と隣り合わせの部隊にいるとは思えない、不気味なほどの陽気さだった。

「お前ら、沿警の救難強化指定だろ!? 海上防衛隊・舞鶴水中処分隊の『桧垣明(ひがきあきら)』だ。今年から部隊に配属されたばっかの新米だけどな、よろしく!」

 気さくに差し出されたグローブの手を、大輔は戸惑いながらも握り返した。

「……間大輔。こっちはバディの神崎俊平だ」

「大輔に俊平か! 海防のEODなんてデカいロットワイラーやピット・ブルばっかでさ、教育隊の頃から毎日『水中の爆風で真っのはじけ飛ぶチビ』って言われてたんだよ。まさかお隣の沿警校で同胞に会えるとはな!」

 明の太陽のような明るさに、大輔は面食らった。だが、隣に立つ俊平は眉根を寄せ、冷ややかな視線を明に向けた。

「……防衛隊のEODといえば、沿警の特救隊と並ぶ最難関の精鋭のはずだ。そんなピクニック気分の軽口を叩いて、よく選抜を生き残れたな」

「へへっ、教官にもよく言われるよ!」

 明は俊平のトゲのある言葉をまったく意に介さず、白い犬歯を見せてニッと笑った。

 その時、大輔の目が明の左手に留まった。はめられたダイビンググローブの薬指から小指にかけての縫い目が不自然に引き攣れ、その下の布地が微かに焦げたように硬化している。かつての水中爆発の熱風で文字通り皮膚と毛を炙られた痕跡だった。ただの楽天家ではない。この小柄なビーグルは、文字通り死の淵を笑い飛ばす本物の修羅だった。

「全員、支援艇へ乗艇しろ! 訓練海域まで移動する!」

 防衛隊の先任伍長と、鬼頭の野太い怒号が同時に響き渡った。

 一行を乗せた支援艇は舞鶴湾を北上し、湾の入り口に近い戸島(としま)の沖合で錨を下ろした。

 本日の第一課目は、呼吸器を使用せず、マスクとシュノーケル、フィンのみで行う「距離三キロの洋上ナビゲーション遠泳」だった。湾内に流れ込む潮流を読み、桟橋まで泳ぎ切る実戦課目だ。

 支援艇の揺れる後部デッキに立ち、大輔は荒れ狂う鉛色の海面を見下ろした。

 白波が砕け、底知れぬ暗緑色のうねりが船体を突き上げる。飛び込めば、そのままあの日の暗闇に引きずり込まれて二度と浮かび上がれない。胃液がせり上がり、過呼吸寸前の震えが両脚を硬直させていた。

「……おい、沿警の」

 すぐ隣で、マスクを額にかけた明が、声のトーンを落として囁いた。

「お前、海の底が怖いんだろ」

「……っ」

 図星を突かれ、大輔は息を呑んだ。明は海面のうねりから目を離さずに続ける。

「無理もないさ。今日の下げ潮は一・五ノット近い。正面からまともにぶつかれば、大型犬の筋肉でも前に進まねえ。そのうちパニックになって溺れるぜ」

「なら……どうしろって言うんだ」

「俺のフィンの作る『泡』だけを見てついてこい」

 明はゴーグルを引き下げ、冷酷な目で海面を見据えた。

「潮ってのはな、真っ直ぐ流れてるわけじゃねえ。岬や海底の起伏にぶつかって、逆方向に流れる『反転流』の細い道が必ずある。俺たちハウンドの鼻と肌で、その海の『匂い』を嗅ぎ分けるんだ。底の暗闇なんか見るな。俺の引いたラインだけを這ってこい」

 ピィーッ! と鋭いホイッスルが鳴り響く。

 防衛隊の戦闘犬たちが、次々と海へ飛び込んでいく。大輔は震える顎を食いしばり、俊平、明とともに、飛沫を上げる五月の日本海へと身を投じた。

 ズブリと海中に沈み、すぐに水面へ顔を出す。激しいうねりが容赦なく顔面を叩き、シュノーケルの先端から冷たい海水が飛び込んでくる。

 スタート直後、ロットワイラーやピット・ブルたちは、自慢の筋力で白波を正面から叩き割り、力任せに前へと飛び出していった。

 だが、複雑な向かい潮と横波に捕まり、数分もすると彼らの巨大な体躯は強い水の抵抗を受けて目に見えて失速し始めた。パワーがあるゆえに、潮流の壁に正面からぶつかり、無駄な体力を削られているのだ。

 その横で、明が左手で『俺の後ろにつけ』とハンドサインを出した。

 明のコース取りは、大型犬たちが突っ込んでいく流心(最も流れの速い中央部)を完全に外れていた。海岸線の岩場に沿って蛇行し、潮流が弱まる極細の「反転流」の筋を、まるで目に見える糸を手繰るように正確にトレースしていく。小柄な体躯ゆえに水の抵抗を最小限に抑え、ラバーフィンで効率よく水流のポケットを縫っていく技術だった。

 大輔と俊平は、明が蹴り上げるフィンの白い泡だけを凝視し、その航跡(ライン)へぴったりと重なるように滑り込んだ。

 それは自転車の空気抵抗減らしなどという生易しいものではない。猟犬(ハウンド)が、先頭の犬が嗅ぎ当ててみせた「海の道」を絶対の信頼で追従する、本能の隊列だった。

 暗い水底を見る暇などなかった。目の前で明が切り開く航跡と、隣を泳ぐ俊平の規則正しい呼吸音だけが、大輔の意識を暗黒の海から繋ぎ止めていた。

 無駄な抵抗を受けず、波の力を利用して進む三匹のビーグルは、本流に逆らって喘ぐ大型の戦闘犬たちを、滑るような速度で次々と追い抜いていく。

 命を救うためのジャパウ沿岸警備庁と、国を護るためのジャパウ海上防衛隊。

 背負う旗と任務は違えど、小さな骨格と研ぎ澄まされたロジックで巨大な海に挑む三匹の猟犬が、鉛色のうねりの中で確かに一つの群れ(パック)となっていた。

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