第6話 水底の文字盤
第1部 第6話:水底の文字盤
地獄の立ち泳ぎから二週間が過ぎていた。
四月下旬。二十名いた救難強化指定の候補生は、すでに十四名にまで減っていた。
塩素の水を飲んで過呼吸で意識を失いかけた者、連日の巻き足で両脚の筋を痛めて歩行不能になった者、そして鬼頭教官の容赦ない精神的圧迫に耐えかねて自ら辞退届を叩きつけた者。
脱落者が一人、また一人とプールを去っていく中、大輔と俊平は泥水を啜るようにして生き残っていた。
生まれ持った体格差はどうしようもない。ラブラドールの高山たちが分厚い胸板と長い四肢で力任せに推進力を生み出す横で、二人のビーグルは骨が軋むほどの疲労に耐え、水流のわずかな乱れを読み、一ミリの無駄も削ぎ落としたフォームで食らいついた。消灯ラッパが鳴った後も、湿布薬の匂いが充満する暗い居室で、互いの痙攣するふくらはぎを無言で揉み合い、歯を食いしばって耐え忍んできたのだ。
だが、この二週間のメニューはまだ「水面」での泳法と体力錬成に限られていた。大輔にとって最大の鬼門である、頭まで完全に水没する『潜水』の教程が、ついに今日から始まろうとしていた。
その日の午前、半屋外にある潜水訓練用の深水槽には、春の終わりとは思えぬほど重苦しい日本海の鉛色の雲が垂れ込めていた。
吹き込む冷たい海風が、温水プールから立ち上る湯気をちぎるように奪い去っていく。競泳水着一枚で整列した十四名の濡れた毛皮から体温が容赦なく奪われ、候補生たちの歯茎は青白く変色し、指先の感覚すら消失しかけていた。
プールの縁には、黒のウェットスーツに空気呼吸器を着けた助教が二人、いつでも飛び込める姿勢で控えている。本番の海で死なせないための地獄――その言葉の裏づけが、そこにあった。
主任教官の鬼頭は、不自然に引き攣れた右脚を引きずりながら、学生たちの前へ歩み出た。
その丸太のように太い手首には、分厚いステンレススチールで覆われた無骨な機械式ダイバーズウォッチが巻かれていた。
カチ、と鬼頭は無造作に金属ベルトの尾錠を外した。硬い金属の擦過音が、風の音に混じって響く。
「本日の最終課題を始める」
感情の削ぎ落とされた嗄れ声が、冷え切った空気を震わせた。
「これより行うのは、無呼吸潜行および水底捜索適性試験だ。ルールは単純極まりない」
鬼頭は右腕を振りかぶると、手にした重いダイバーズウォッチを、深水槽の中央めがけて放り投げた。
ポチャン、と小さく重い水音が立つ。
水深八メートル。すり鉢状に深くなるプールの最深部へ向かって、銀色の塊がゆらりと光を反射しながら沈んでいく。
「あれを水底から回収して陸へ持ち帰ったペアのみ、この基礎プールから卒業させ、午後からの『実海域訓練』への参加を認める。拾えなかった組は、午後もここで素潜り百本だ」
「なっ……水深八メートルを、素潜りで……?」
高山が小さく息を呑んだ。
ただの潜水ではない。水深八メートルは一・八気圧の世界であり、耳抜きがわずかでも遅れれば鼓膜が破れる深さだ。さらに鬼頭は、容赦のない宣告を付け加えた。
「ただし、ゴーグル、マスク、フィンの使用は一切禁ずる。水着のみ、完全な裸眼、素足で潜行しろ。制限時間は一組につき六十秒、途中の息継ぎは一切なしだ。時計を掴めずに一度でも水面に顔を出せば、その場で失格とする」
「……裸眼で、フィンもなし」
列の中に戦慄が走った。
裸眼で水中に潜れば、水と角膜の屈折率の差でピントが合わず、視界はぼやけて白く霞む。しかも曇天で光が届かない八メートルの底では、小さな時計の文字盤はおろか、タイルの目地すら判別がつかない。何よりフィンがなければ、水かきのないビーグルの脚力で八メートルの水圧を蹴り上がって浮上するのは至難の業だった。
「躊躇している暇に、時計の文字盤は錆びていくぞ」
鬼頭は首から下げたストップウォッチを取り出し、カチリと親指を乗せた。
「二人一組、バディ単位で順番に挑め。片方が底でブラックアウトした場合、もう片方が責任を持って引きずり上げろ。……一組目、高山ペア、位置につけ!」
最初に飛び込んだ高山たち大型犬ペアは、圧倒的な体幹と水かきのある脚で、八メートルの底まで力任せに到達した。
だが、裸眼でぼやける暗青色のプール底で手探りの捜索に手間取り、焦って水を掻き回した挙げ句、四十秒を過ぎたところで肺の限界を迎えた。水面を割って顔を出したとき、その大きな掌は空っぽだった。
「タイムオーバー、失格! 端へ上がれ。次!」
鬼頭の非情な声が飛ぶ。
次々と飛び込む候補生たち。だが、水圧による激しい耳の痛み、ピントの合わない視界、そして前の組が蹴り上げた乱流によって、時計の位置は完全に分からなくなっていた。次々に水面に這い上がっては、激しく咳き込み、プールサイドへ塩素水を嘔吐して失格の烙印を押されていく。
六組十二名がすべて失敗し、プールサイドで肩で息をする中、鬼頭が冷酷に最後の名を呼んだ。
「……最終組。間、神崎。前へ」
ついに番が回ってきた。
大輔は濡れたプールサイドの縁に立ち、底を見下ろした。
水深八メートル。底は遥か遠く、冷たい青黒色の闇のように沈んでいる。
その深い青が、あの日の温水プールの底と重なった。足の肉球から悪寒のような震えが這い上がる。この二週間、水面で顔を上げて泳ぐことには死に物狂いで耐えてきたが、あの水底へ向かって頭から潜り、水中で目を開けるのは、あの日以来初めてだった。喉の奥がひきつり、塩素の臭いが肺を灼く。
それでも大輔は、爪先をプールの縁に強く掛け直した。
「大輔」
隣に並んだ俊平が、前を向いたまま低く囁いた。
「僕がプールの右半分、君が左半分の底を探る。先に時計に触れた方が浮上の合図を出せ。見つけた方の浮上を、もう片方が背後から押し上げてサポートする」
「了解だ」
大輔は短く応えた。俊平の作戦は、酸素消費を最小限に抑えつつ、互いのマイナス浮力をカバーし合う極めて合理的なものだった。
「……バディだろ。俺が溺れたら首根っこに噛みついてでも引き上げるって、入校式の日に言ったのを忘れるなよ」
「抜かせ。沈みたくなければ自力で掻け」
俊平が鼻を鳴らすのと同時に、鬼頭の親指がストップウォッチを弾いた。
「――始め!」
二人のビーグルは、同時に青暗い世界へと頭から飛び込んだ。
全身が完全に水没した瞬間、圧倒的な水塊が毛皮を締めつけ、大輔の脳裏にあの日の恐怖がフラッシュバックした。目を閉じたい。今すぐ水面へ逃げ帰りたい。
だが、大輔は奥歯を噛み締め、自らの意思で強引に瞼をこじ開けた。
冷たい塩素水が角膜を突き刺し、屈折率の狂った視界が白くぼやける。長い垂れ耳が水流でめくれ上がり、冷たい水が直接耳孔の奥へ流れ込んできた。
水深三メートル、四メートル。耳の奥で、ゴキン、と鼓膜が内側に押し込まれる激痛が走った。大輔は手を頭上に組んだストリームラインを崩さず、顎をわずかに動かし、喉の奥の筋肉だけで耳管を開放して水圧を逃がしていく。
推進力は自分の短い脚のドルフィンキックだけだ。水の抵抗を極限まで減らし、矢のように水底へと落ちていく。
水深六メートル、七メートル。水圧によって肺の中の空気が圧縮され、胸郭が内側からミシミシと軋み始める。体脂肪の少ないビーグルの体が、浮力を完全に失い、鉛のように水底へと引きずり込まれる「マイナス浮力」の領域へと入った。
底の冷たいタイルに、両手の指先が触れる。水深八メートル。
酸素が足りない。脳の奥がチリチリと熱を帯び、「息を吸え」と延髄が絶叫する。
ぼやける視界の中、右で俊平がタイルを這う水流を感じながら、大輔は左半分の底を探った。
どこだ。どこに落ちている。
肺が焼けるように熱い。横隔膜が勝手にしゃっくりのような痙攣を始め、苦しさが限界を突破する。視界の端が暗くなりかけたその時、プールの最深部にある排水用グレーチング(鉄格子)の暗がりに、沈んでいくあの子の小さな白い手が揺らいだ気がした。
――今度こそ、離さない。
大輔は恐怖をねじ伏せ、その鉄格子の方へと身体を滑らせた。
細い溝の奥に、微かに鈍く光る金属の塊が網膜をかすめる。
あった。前の組の大型犬たちが足で蹴り飛ばし、彼ら自身の太い指では届かない鉄格子の隙間に挟まっていたのだ。大輔は身を捩り、小柄なビーグルの細い指先を鉄格子の隙間へ無理やりねじ込んだ。爪が剥がれそうな激痛とともに、傷だらけのステンレススチールを強く鷲掴みにする。
鬼頭のダイバーズウォッチが、掌に確かに収まった。
大輔は振り返り、俊平に向けて時計を握った拳を突き出した。
それを見た俊平が、即座に大輔の背後へ回り込み、浮上の姿勢に入る。
大輔も底を蹴り上げた。だが、トラウマと向き合った極度の精神的消耗で指先が痙攣し、脚に力が入らない。圧縮された肺にはもう浮力がなく、一・八気圧の水圧が大輔の小さな体を押さえつける。
水深五メートル、四メートル。
浮上するにつれ、水圧が下がり、肺の中の酸素分圧が急激に低下していく。シャロー・ウォーター・ブラックアウト。脳への酸素供給が絶たれ、大輔の視界の端が急速に黒く狭窄していった。
――だめだ、意識が、落ちる。
時計を握る手の感覚が消えかけた刹那、真下から強烈な推進力が大輔の体を突き上げた。
俊平だった。
意識が飛びかける大輔の腰を背後から両腕で抱え込み、残るすべての酸素を燃やして、俊平が渾身のドルフィンキックで水面を目指したのだ。
視界がチカチカと明滅する。遠い水面が近づく。
バシャアッ!
水面を割り、二人は同時に爆発するような呼気を吐き出した。
「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ、ハァッ……!」
「ハァッ……ハァッ、ゴホッ……!」
プールサイドの縁に両手をかけ、激しく咳き込みながら、貪るように冷たい空気を肺へ流し込む。全身の筋肉がガタガタと震えて止まらない。
プールサイドに仁王立ちする土佐犬の足元へ、大輔は震える右腕を伸ばし、握りしめていた重い金属の塊をカランと転がした。
水滴に濡れたダイバーズウォッチが、雲間の鈍い光を浴びて確かに秒針を刻んでいる。
周囲で毛布にくるまっていた高山たち十二名が息を呑み、プールサイドが完全に静まり返った。水に愛された大型犬たちが誰一人として成し遂げられなかった課題を、最も小柄で水に嫌われた二匹のハウンドが、泥臭く、しかし完璧な連携でクリアしてみせたのだ。
鬼頭はゆっくりと視線を落とし、足元の時計を見つめた。
そして右脚を引きずりながら一歩歩み寄り、時計を拾い上げると、太い親指でガラスの水滴を拭った。底知れぬ双眸が、水面で肩で息をしている大輔と俊平を見下ろす。
「……タイム、五十八秒。制限時間内だ」
ストップウォッチをリセットする金属音が、静まり返ったプールサイドに小さく響いた。
「神崎。途中から間は完全にブラックアウト寸前だった。なぜあのまま時計だけを奪い取って一人で浮上しなかった。共倒れになるリスクを考えなかったのか」
「……死体を揚げても、合格にはならないからです」
俊平は冷え切ったマズルを震わせながら、途切れ途切れに、だが氷のように冷徹な声で言い放った。
「この試験は『ペアでの回収』が条件です。時計だけ奪って僕一人で上がれば、バディを見捨てた時点で失格になる。マイナス浮力のこいつを引き上げるには、完全に意識を失ってただの死重になる前に、背後から推進力を足して二人分の浮力を繋ぐしかなかった。……合格する確率の最も高いルートを選んだだけです」
その瞬間、鬼頭の顔面の傷跡が微かにピクリと引き攣った。
情ではない。ルールと物理法則を冷酷に計算し尽くした上での、絶対的な「生還」への執念。
学校内で囁かれる噂が本当なら、かつて沈没船の底で自らの右脚を潰されながらも、ついにバディを引き上げられずに生還したというこの男の古傷を、俊平の淀みない論理が真正面から抉ったはずだった。
長い沈黙の後、鬼頭は無言でダイバーズウォッチを手首に巻き直すと、くるりと背中を向けた。
「……間、神崎。貴様ら二名のみ、午後からの実海域訓練への移行を許可する。残りの十二名は、昼食後、このプールで素潜り百本だ」
それだけ言い残し、鬼教官は一度も振り返ることなく、右脚を引きずってプールサイドを去っていった。
緊張の糸が切れ、大輔は水の中で、隣に浮かぶ俊平の濡れた肩を拳で軽く小突いた。
「……無茶しやがって。『足を引っ張ったら水底に蹴り落とす』んじゃなかったのかよ」
「黙れ。結果的に時計が手に入ったから良かったものの、あと一秒遅ければ蹴り落としてたぞ」
俊平は相変わらず憎まれ口を叩きながらも、大輔の手を水の中で一度だけ強く握り返した。
二人のビーグルが水底から掴み取ったのは、ただの時計ではない。あの日の亡霊が待つ水底へ自ら潜り、鬼教官の喉元に自分たちの存在を確かに刻み込んだ、最初の牙の跡だった。




