第6話 水底の文字盤
第1部 第6話:水底の文字盤
入校から二週間。四月下旬。
救難強化指定を希望した二十名の学生は、早くも十四名に減っていた。
基礎泳力不足、負傷、あるいは恐怖による自主降板。鬼頭教官の言葉通り、適性のない者は容赦なくふるい落とされていく。
そして今日、大輔もその崖っぷちに立たされていた。
屋内水泳訓練場。
水深一・五メートルのプールを前に、大輔の背中には不快な冷や汗が張り付いていた。
この二週間、大輔は別メニューで水に慣れる訓練を許されていたが、それも限界だった。
「間」
巨大な土佐犬、鬼頭教官が重い足音とともに歩み寄り、水底へ黒い円盤を投げ落とした。機械式時計を模した、訓練用の標識だ。
「貴様の特別扱いは今日で終わりだ」
鬼頭の濁った眼光が、大輔を射抜く。
「あの水底の文字盤を読み取れ。できなければ、本日付で貴様を救難強化指定から外す。特救隊の夢はそこで終わりだ」
有無を言わさぬ最後通告だった。
大輔は奥歯を噛み締めた。水面が揺れるたび、塩素の臭いが脳髄を灼く。
「……荷物をまとめる準備はできているか」
隣から、氷のように冷たい声がした。バディの神崎俊平だ。
俊平はこの二週間、無駄のないストロークと冷静な判断力で着実に評価を上げていた。同じビーグルでありながら、二人の実力差はすでに絶望的に開いていた。
「俊平……」
「君が過去に誰を死なせようが、僕の知ったことじゃない」
俊平は前を見たまま、吐き捨てるように言った。
「だが、これ以上僕の視界でうろたえるなら、さっさと呉へ帰れ。同じ犬種だと思われるだけで虫唾が走る」
一切の同情もない、冷酷な宣告。
だが、それが現実だった。海は待ってくれない。過去の悲劇を言い訳にして立ち止まる人間に、命を預ける馬鹿はいない。
「……帰らない」
大輔は水中マスクを乱暴に引き下げ、顔に装着した。
「俺の時間は、あの日から止まったままだ。動かすには、潜るしかない」
「訓練開始!」
鬼頭の号令が響く。
大輔は手すりを蹴り、一・五メートルの水底へ向けて身を沈めた。
全身を水圧が包み込む。
ゴボッ、という泡の音とともに、視界が青く染まった。
瞬間、脳髄に強烈なフラッシュバックが襲いかかった。
――冷たいタイル。水を吸ったトイプードルの巻き毛。開かない瞼。
幻影が水の中で渦を巻き、大輔の喉を締め上げる。息ができない。肺が痙攣し、反射的に水面へ逃げ帰りたくなる本能が暴れ狂う。
(逃げるな……ッ!)
大輔はプールの底のタイルに両手を叩きつけ、無理やり己の体を水底へ押さえつけた。
見ろ。過去の幻影じゃない。今の現実を見ろ。
青く歪む視界の中で、大輔は必死に目を見開いた。
少年の幻影の奥に、黒い円盤があった。
白い針が、コチ、コチ、と無機質に動いている。
十時、十七分、四十二秒。四十三秒。
時間は動いている。大輔が立ち止まって自責の念に駆られていた二週間も、時計の針は決して止まることなく前へ進んでいた。
少年の命を失った過去は変えられない。だが、今、この水底で秒針を見つめているのは、他でもない大輔自身の意志だ。
文字盤の数字を網膜に焼き付け、大輔は力強く水底を蹴った。
ザバァッ!
水面を割り、大輔は大きく息を吸い込んだ。
肺に新鮮な空気が入り込み、塩素の臭いを上書きしていく。
「間!」
プールサイドから見下ろす鬼頭が声を張った。
「報告しろ!」
「……っ、十時、十七分、四十五秒!」
大輔は手すりを握りしめ、喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「標識の確認、完了しました!」
訓練場に、静寂が落ちた。
鬼頭は自分の腕時計に視線を落とし、数秒間の沈黙の後、短く頷いた。
「……よし。確認した」
その言葉を聞いた瞬間、大輔の体から一気に力が抜け、手すりに額を押し当てて荒い息を吐いた。
這い上がるようにプールサイドへ上がると、濡れたタイルの上に仰向けに倒れ込んだ。全身の筋肉が震えている。
見上げると、俊平が大輔を見下ろしていた。
「……無様な潜り方だ。水しぶきが多すぎる」
相変わらずの冷たい声。
だが、その手には、大輔の分の白いタオルが握られ、無造作に顔面へ投げ落とされた。
「次は僕のタイムを抜け。できなければ、置いていくぞ」
俊平はそれだけ言い残し、更衣室へ向かって歩き出した。
顔にかかったタオルの下で、大輔は短く笑い声を漏らした。
まだ、何も救っていない。潜水士への道の、ほんの入り口に指をかけただけだ。
それでも、ポケットにしまったホイッスルと同じように、大輔の胸の中の止まっていた時計の針が、今、確かな音を立てて動き始めていた。




