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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第5話 鉛の洗礼

第1部 第5話:鉛の洗礼

 翌朝、午前五時半。

 通常の起床ラッパが鳴り響くよりも早く、秋季特別枠のうち二十名は非常呼集によって叩き起こされていた。

 まだ夜明け前の薄暗いジャパウ沿岸警備学校。その敷地奥にある救難訓練用の深水プールサイドに、黒の競泳水着姿の候補生たちが整列している。

 水深五メートル。照明に照らされた底のタイルまで見通せる透き通った青が、静かに揺れていた。本来の課業である基礎水泳訓練は、今日の午後から始まる予定だった。だが、ここに集められたのは、昨夜の進路希望調書に『潜水士』と記し、将来、呉の潜水技術研修へ進むための校内選抜――『救難強化指定』へと名乗りを上げた二十名だ。

 大輔と俊平のほかに、十八名。昨夜、教場で二人を冷笑した者たちの何人かが、提出直前で調書を書き換えたらしい。ハウンド種に論破されて引き下がれるほど、水猟犬たちの自尊心は安くなかったのだ。

 並んだ顔ぶれを見渡せば、大輔の胃の奥が冷たく軋んだ。

 ラブラドール・レトリーバーの高山をはじめ、屈強な骨格を持つニューファンドランドやチェサピーク・ベイ・レトリーバーたちが、鋼のような体躯と分厚い胸板を誇示するように肩を並べている。その列の端に並ぶ大輔と俊平の、浮き出た鎖骨と水かきのない短い四肢は、どう見ても場違いな異物だった。

「……二十人か」

 俊平が正面を向いたまま、マズルの端だけを動かして低く呟いた。

「毎年、この強化指定の選抜を最後まで残れるのは半分以下だ。脱落した者は潜水士への推薦枠を永久に失い、中には肉体か精神を壊して、この学校そのものを去っていく奴もいる」

「半分が、消える……」

「自然に落ちるんじゃない。本課業が始まる前に、教官がここで徹底的に叩き落とすんだ。中途半端な覚悟の奴を、本番の海で死なせないためにな」

 俊平の乾いた言葉を裏付けるように、プールサイドの重い鉄扉がガチャリと音を立てて開いた。

 ペタリ、と濡れたタイルを踏む重い足音。続いて、何かを引きずるような、ずっ、という低い異音が室内に反響する。

 全身を黒のウェットスーツで包んで現れたのは、顔面に深い裂傷の跡を持つ巨大な土佐犬――救難・水泳主任教官の鬼頭だった。

 闘犬特有の岩のように分厚い胸板を誇りながらも、その右脚は、歩くたびに微かに引き攣れるように不自然な軌道を描いている。過去の凄惨な海難現場で負った古傷だ。

 そもそも、高密度の筋肉と重い骨格の塊である土佐犬は、全犬種の中で最も水泳に向かない「沈む犬」である。だが鬼頭は、その海に嫌われた質量を規格外の脚力と強靭な心肺機能だけでねじ伏せ、激流の海中を重戦車のように泳ぎ抜いて何十もの命を引きずり出してきたという。

 水猟犬ですらない彼が、沿岸警備隊で「潜水の鬼」として名を轟かせている事実こそが、この男の底知れぬ狂気を物語っていた。

 鬼頭は整列した候補生の前に立つと、感情の失せた双眸で全体を睥睨した。

「二十名。……例年より頭数だけは揃っているようだな。だが、貴様らの大半は一か月後にはこのプールにはいない。それは断言しておく」

 鬼頭は首から下げた防水のストップウォッチを、太い親指でカチリと弾いた。

「潜水士とは何か。人命救助の英雄か? ……ふざけるな。潜水士とは、暗闇の泥底でパニックを起こして爪を立ててくる溺者を力ずくでねじ伏せ、生きて陸へ引きずり戻すための『道具』だ。道具に安い誇りはいらん。必要なのは、死の恐怖に抗う狂気と、揺るがぬ絶対的体力だけだ」

 鬼頭の視線が、無作為に列をなめる。そして、ただ虚空を見据えたまま、金属を擦り合わせたような声で吐き捨てた。

「貴様らの中に、己の生まれ持った『泳力』や小手先の『技術』で海を御せると勘違いしている愚か者がいるようだな。いいか、この水温管理された透明なプールで綺麗に手足を掻くお遊びなど、潮流三ノットの暗黒の海では鉛と同じだ。絶対的な体力と執念を持たぬ者は、海の中では真っ先に死ぬ」

 名前こそ呼ばれなかったが、それは水に愛された大型水猟犬たちに対する冷酷な牽制であると同時に、大輔の胸の古傷をも正確に抉る言葉だった。

 あの日、水底で冷たくなっていく教え子の胸。自分の力が足りず、指先から滑り落ちていった小さな命。

 大輔の奥歯がギリリと音を立てた。耳の先まで血が上るのを感じながらも、正面を見据え、両拳を固く握りしめた。

「全員、プールの縁に並べ! 第一教程――基礎適性の足切りだ」

 鬼頭の号令で、二十名が一斉にプールの縁へ進み出る。

 大輔の足の肉球が、濡れたタイルの感触を拾った。眼下に広がる、水深五メートルの底知れぬ青。温水のはずなのに、立ち上る強烈な塩素の臭いが、幻の冷気となって大輔の肺を内側から鷲掴みにした。

「足元のウエイトベルト五キロを腰に装着しろ。入水後、浮上して立ち泳ぎに入り、両肘を水面から完全に露出させた状態を『五分間』維持だ。開始の合図以降、一度でも肘が沈んだ者、顎が水に浸かった者は、その時点で選抜から除外する」

「……本気かよ」

 隣の列で、高校インターハイ覇者の高山が、垂れた耳をピクリと引き攣らせて低く呻いた。

「ただの立ち泳ぎじゃない、両肘出しだぞ……。そこに五キロ追加して五分なんて、足の筋肉が千切れる……っ」

 水を知り尽くしたエリートだからこそ、その条件がいかに物理的限界を超えた「拷問」であるかを瞬時に理解したのだ。他の大型犬たちの喉元からも余裕の呼吸が消え、背中の毛並みが逆立つような動揺が広がっていた。

 だが、大輔の背筋に突き立てられていた氷の刃は、筋肉の限界などという真っ当な恐怖ではなかった。

 水底を見下ろせば、黒いウェットスーツを着た助教たちが四名、すでに空気呼吸器のシリンダーを背負い、マズル全体を覆う特殊マスクから白い泡を吐き出しながら水底に待機している。力尽きて沈んだ者を即座に引き上げるための、無言の処刑人たちだ。

「開始まであと十秒! ……躊躇する者は今すぐベルトを置いて寮へ戻れ!」

 無慈悲なカウントダウンが始まる。

 すぐ隣では、俊平がすでに五キロの鉛ベルトを腰に巻き、震えひとつ見せずに水面を睨みつけていた。

 大輔は、冷え切った指先でウエイトベルトを拾い上げ、自分の細い腰に巻きつけた。バックルを固定した瞬間、ずしりと骨盤に食い込む暴力的な鉛の重み。

 その冷たい死重が、あの日、水底から小さな体を抱き上げたときに腕にのしかかった、あの絶望的な重力の記憶を生々しく引きずり出した。

 五メートルの青い水底が、大口を開けて大輔を呼んでいるようだった。あの日、突然意識を断たれた小さな体を水の重力が深淵へと引きずり込んだように、今度はこの腰の鉛が、大輔自身をあの冷たい底へ引きずり込もうとしている。

 水が怖い。八か月間、シャワーの飛沫にすら怯えていた顔だ。塩素の水が鼻腔や喉に流れ込み、息ができなくなるのが死ぬほど恐ろしい。喉の奥がひゅうと痙攣し、過呼吸の一歩手前で胸郭が激しく上下する。

 高山たち大型犬が「筋肉の限界」に怯える横で、大輔はただ一人、発狂寸前の「過去の亡霊」と対峙していた。

 ――だが、この腰に食い込む「重み」から再び逃げ出す絶望は、溺れ死ぬことよりも恐ろしい。

「三、二、一……入水ッ!」

 大輔は震える顎を砕けんばかりに食いしばった。

 足は、前へは蹴り出せなかった。ただ、腰に食い込む「五キロの罪」の重力に身を委ねるように、大輔はプールの縁から足を滑らせ、塩素の匂い立つ地獄の青へと自ら垂直に堕ちていった。

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