第4話 進路希望調書
第1部 第4話:進路希望調書
入校から三日が過ぎた。
朝五時半の起床ラッパから始まる京都・舞鶴での生活は、理不尽と極限疲労の連続だった。
分刻みの点呼と、ミリ単位の正確さを求められる居室点検。手のひらの肉球が擦り切れて血が滲むまで、護岸のダビットに吊るされたカッター(短艇)の重い櫂を引き続ける基礎漕法訓練。そして膨大な海事法令や航海術を頭に叩き込まれる学科講義。夜の課業が終わる頃には、屈強な大型水猟犬たちですら泥のようにベッドへ倒れ込む毎日だった。
大輔と俊平は、体格とリーチで劣る分、他の候補生の倍近い運動量を強いられていた。それでも俊平はどれだけ筋肉が悲鳴を上げようと顔色一つ変えず、大輔も必死にその小さな背中へ食らいついていた。
大輔にとって何よりの拷問は、護岸での訓練中、すぐ足元でうねる舞鶴湾の海面だった。
風が吹けば、日本海の容赦ない冷たい飛沫が直接マズルを叩く。春の太陽光すら吸い込む暗緑色の海面を覗き込むたび、真昼であるにもかかわらず、あの日のプールの暗い水底がフラッシュバックした。喉の奥で塩素の幻臭が爆発し、せり上がるパニックをねじ伏せるため、大輔は皮の剥けた手で血を流しながら狂ったように櫂を引き、ただ前の座席の背中だけを見据えていた。
三日目の夜、第一教場。
夜間課業のために集められた候補生たちの間で、重苦しいペンの音だけが響いていた。
各自の机の上には、夕方の教務で配布された『進路希望調書』が置かれている。本校を卒業した後の希望赴任管区や、将来目指す特技・最終目標を申告する重要な公式文書であり、記入し終えた者から順次、別棟の教官室へ提出することになっていた。入校直後のこの時期に書かせるのは、己の身の程を弁えぬ夢想家を早期に炙り出し、徹底的に叩きのめすための「踏み絵」でもある。
大型巡視船の航海士を目指す者、機関科のスペシャリストを目指す者など、それぞれの野心と計算がペン先に宿っていた。
大輔は用紙の中央にある「将来の希望特技」と「具体的な目標」の欄を見つめた。
黒の油性ボールペンを握り直し、力を込めて文字を刻み込む。
『希望特技:潜水士(救難強化指定)』
『目標:羽田特殊救難隊への入隊』
迷いはなかった。だが、書き終えた瞬間、ペンを持つ右手がわずかに震えた。
安全なブリッジから船を指揮するためにここへ来たのではない。冷たい現場の泥水に自身の四肢を沈め、零れ落ちる命を直接引きずり上げるためだ。卒業後に現場を経験し、故郷・呉で行われる地獄の潜水技術研修を突破して、誰もが匙を投げる絶望の底――特殊救難隊へ届かねば、あの日から歩き出した意味がない。
「……おい、間」
通路を挟んだ隣の席から、低く抑えられた声が降ってきた。
ラブラドール・レトリーバーの巨漢、高山だった。高校時代に水泳のインターハイで鳴らした、生粋の水猟犬エリートだ。高山は大輔の手元の調書を冷ややかな目で見下ろし、周囲に聞こえないよう声を潜めた。
「公式の調書だぞ。ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけてなどいない」
「潜水士になって特救隊に行く、だと? あそこはな、海を知り尽くした潜水士の中からさらに選抜された一握りのバケモノだけが行く死地だ。水に愛された大型犬の俺たちですら、訓練で命を落とすことがある。護岸のカッターの上から海面を見るだけで、鼻先の色を失って震えているお前が行ける場所じゃない」
高山の声に下品な嘲笑はなかった。あるのは、現場でチームの死に直結する「足手まとい」を事前に排除しようとする、大型使役犬特有の冷徹な合理主義だけだ。
「潜水士の装備は、空気呼吸器のシリンダーや器具だけで陸上重量が二十キロを超える。お前たちビーグルの体重の半分近い重さだ。それを背負って荒波の潮流に逆らい、水を吸って重くなった大型犬の要救助者をどうやって引き上げる? 現場じゃお前らはただの時限爆弾なんだよ。鬼頭教官に目を付けられて潰される前に、大人しく陸上の通信か主計に書き直せ」
反論の余地のない、残酷なまでの正論だった。実際の海は、小柄なビーグルの事情やトラウマなど一切斟酌してはくれない。
大輔が奥歯を噛み締め、沈黙した、その時だった。
カツン、と硬い音が静かな教場に響いた。
斜め前の席で黙々とペンを走らせていた俊平が、ボールペンを置き、静かに立ち上がったのだ。俊平は感情の読めない眼差しで高山を一瞥し、手にした己の調書を胸の高さに掲げた。
高山の太い眉がピクリと跳ねる。
俊平の調書の欄にも、大輔と一字一句違わぬ『潜水士』『特殊救難隊』の文字が端正な筆跡で刻まれていた。
「貴様ら……揃いも揃って、海を舐めているのか」
「陸上での装備重量の負担と、外洋での推進力の低さは否定しない」
高山の低い唸り声を、俊平の氷のように平坦な声が遮った。
「だが、海難現場は開けた外洋だけじゃない。転覆した船舶の極めて狭い区画――崩落した配管やひしゃげた隔壁が入り組んだ『デッドスペース』への進入を試みる際、君たち大型犬のその立派な肩幅はただのつっかえ棒だ。物理的に通り抜けられない隙間が、船底にはいくらでもある」
「……何だと?」
「しかも、水中での活動限界を決めるのは筋力ではなく『残圧(空気の残り)』だ。巨大な筋肉と肺を持つ君たち大型犬に比べ、心肺効率が良く基礎代謝の少ない僕ら小型ハウンドは、同じ容量のシリンダーを背負った場合、空気の消費速度を約三割抑えられる。視界ゼロの閉鎖空間により長く留まり、水面上のわずかなエアポケットに残る生存者の呼気や汗の匂いを嗅ぎ分けられるのは、僕らだけだ」
俊平の深い栗色の瞳に、揺るぎないロジックの光が宿っていた。
「外洋の荒波で力任せに泳ぐ大型犬にしか救えない命があるように、僕らの小さな骨格と燃費の良さ、そしてこの鼻でしか届かない『底』が確実にある。……他人の調書に口を出す暇があるなら、自分の紙に向き合ったらどうだ」
潜水科学と合理性に基づいた、完全な反証だった。俊平はそれだけ言うと高山から視線を切り、調書を手にして教場の出口へと歩き出した。
残された高山は、険しい顔で大輔と俊平を交互に睨みつけたが、俊平の論理に返す言葉を見つけられず、忌々しげに鼻を鳴らして自分の机に向き直った。
大輔は自分の調書を掴み取り、教場を出た俊平の後を急いで追った。
潮と鉄錆の匂いが混じる夜風が吹き抜ける、別棟への薄暗い渡り廊下。安全靴の足音を響かせて追いつくと、俊平が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
街灯の逆光に浮かぶその瞳には、研ぎ澄まされたナイフのような光が宿っていた。
「……勘違いするなよ、大輔」
俊平は底冷えする声で言った。
「君を庇ったわけじゃない。僕には僕の、どうしても特救隊に入らなきゃいけない理由がある。そのために、ハウンド種を見下す邪魔な大型犬を理屈で黙らせただけだ」
「ああ、分かってる」
「いよいよ明日から、屋内温水プールでの基礎水泳訓練が始まる。鬼頭教官は、この調書を見て間違いなく本気で僕らをプールの底へ沈めに来るぞ」
屋内プール。水底。
その単語を耳にした瞬間、大輔の鼻腔の奥を、あの強烈な塩素の幻臭が突き抜けた。
心臓が肋骨を蹴り上げ、胃の奥から冷たい吐き気が込み上げてくる。白い湯気。水面の乱反射。タイルの底へ沈んでいく小さな影と、指先から急速に失われていった体温。今すぐこの場から逃げ出したいという生存本能が、大輔の全身の筋肉を震わせた。垂れた耳の付け根から背中の毛皮にかけて、べっとりと嫌な脂汗が滲む。
俊平は、その無様な大輔の姿を冷酷に見据えて口を開いた。
「初日に言ったな。自分がパニックを起こしたら、顔面を殴り倒せと」
「……っ」
「約束通り、お前が暴れた瞬間に蹴り飛ばして沈黙させる。バディの義務として水面までは引き上げてやるが、その後どうなるかはお前次第だ」
大輔は紺色の作業服の太ももを、爪が食い込むほど強く握りしめ、無理やり奥歯を噛み締めた。
怖い。水が恐ろしい。だが、ここで逃げれば二度とあの水底には届かない。
「……ああ。頼む」
絞り出すような掠れ声で、大輔は血走った目を上げ、俊平を真っ直ぐに見据え返した。
「絶対に俺を水に置いていくな。引きずってでも、連れて行け」
俊平はやがて短く鼻を鳴らした。それは嘲りではなく、地獄へ向かう共犯者への無言の受諾だった。
「……教官室へ提出に行くぞ」
二人のビーグルは、冷たい夜風が吹く渡り廊下を並んで歩き出した。
塩素の匂いが充満する最初の処刑場――あの底の抜けたプールへと続く重い扉を、自らの手でこじ開けるために。




