第3話 規格外のバディ
第1部 第3話:規格外のバディ
四月上旬、京都・舞鶴。
深い山あいを抜ける舞鶴線の終着、東舞鶴駅に降り立ち、連絡バスで海沿いの道を走るにつれて、窓外の景色は穏やかな瀬戸内とはまったく異なる鉛色の世界へと変わっていった。
同じ軍港の街でも、生まれ育った呉の明るい日差しとは決定的に違う。低く垂れ込めた北国の雲の下、吹き抜ける日本海の海風には、造船所の鉄錆と重油の匂いが冷たく濃密に混じっていた。国道沿いのフェンス越しには、北吸桟橋に係留された巨大な灰色の護衛艦がいくつも迫り出し、見る者の矮小さを容赦なく突きつけてくる。その舞鶴湾の東岸、暗い波が直接護岸を洗う長浜の海沿いに、ジャパウ沿岸警備学校の無骨な校舎群がそびえ立っていた。
着校してすぐ、控え室で慌ただしく着替えさせられて臨んだ大講堂での入校式は、息が詰まるほど張り詰めた空気の中で進行した。
支給された濃紺の第一種制服。二月の繰り上げ合格で採寸が間に合わなかった大輔には、既製品のSサイズがあてがわれたが、それでも肩幅が余り、袖口から覗く手首がひどく頼りなく見える。
周囲に整列しているのは、ニューファンドランドやチェサピーク・ベイ・レトリーバー、ジャーマン・シェパードといった、骨格からして違う屈強な大型犬たちばかりだ。彼らはダボついた制服を着た小柄なビーグルを一瞥し、すぐに興味を失ったように視線を外す。無言の冷遇と値踏みが、安い悪口よりも深く胸を抉った。
式典の締めくくりで、一人の教官が演台の前に進み出た。救難・水泳訓練の主任教官を務める鬼頭だ。
巨大な土佐犬の顔には左目から顎にかけて生々しい裂傷の跡が走り、闘犬の血統が放つ無言の威圧感が講堂の空気を凍りつかせた。かつて羽田の特殊救難隊で鳴らしたという鬼頭が、分厚い名簿ファイルを演台に叩きつける。
「これより、秋季特別枠で入校した新入生たちの『学生バディ』と部屋割りを発表する!」
腹の底に響く重低音の声に、講堂の空気がさらに硬く締まった。本来は潜水士課程などで用いられるバディ制を、鬼頭は新入生の基礎訓練から徹底させていた。単なる同室の相手ではない。過酷な訓練において、文字通り命と進退を一蓮托生にする半身だ。
「明日から始まる水泳訓練でも、実際の海の上でも、互いが互いの命綱だ。片方がパニックを起こせば共倒れになり、片方が相棒を見捨てれば、そいつも殺人者として海に沈む。進級も退学も、生きるも死ぬも二人一緒だ。――名前を呼ばれた者は速やかに起立しろ!」
『水泳訓練』と『海に沈む』という言葉が鼓膜を打った瞬間、大輔の喉がひくりと痙攣し、背中の毛皮に冷たい脂汗が滲んだ。
次々と名前が読み上げられる。大型水猟犬同士の屈強なペアが告げられるたび、講堂の床を揺らすような短く鋭い返事が響いた。
「――候補生番号〇八一、神崎俊平!」
「はい!」
右斜め前で、よく通る芯のある声が響いた。弾かれたように立ち上がった背中を見て、大輔は息を呑んだ。自分とほぼ同じ、小柄な背格好。垂れた耳に三色のトライカラー。大輔と同じビーグルだった。
「――バディ、候補生番号〇八二、間大輔!」
「……っ、はい!」
反射的に立ち上がる。周囲の大型犬たちの視線が、一斉に二人の背中に突き刺さった。
ビーグル同士の最軽量バディ。体格差による事故を防ぐため同体格で揃えるのが安全管理上の基本とはいえ、周囲の巨躯に埋もれるその姿は、あまりにも場違いで矮小だった。嘲笑の混じったかすかなざわめきが講堂に広がる。
「静粛に!」
鬼頭教官の一喝が、闘犬の唸り声のようにざわめきを圧殺した。
「バディの確認を終えたペアは、各自のボストンバッグを持って割り当てられた学生寮の居室へ駆け足で向かい、五分以内に机の上の作業服へ着替えろ! 一秒でも遅れた部屋は、連帯責任で腕立て伏せ百回だ。……行動開始!」
号令と同時に、候補生たちが足元のバッグを掴み、雪崩を打って講堂を飛び出していく。
大輔も革靴の音を響かせて渡り廊下を全力で走り、指定された旧寮の二人部屋へ飛び込んだ。冷たいリノリウムの床と二段ベッド、スチール製の机とロッカーが二つ並ぶだけの無機質な空間だ。すでに移動だけで一分半が経過している。
一足先に部屋へ入っていた俊平は、バッグを床に放り出すと、無駄のない動きでドアを閉め、革靴を蹴り脱ぎながら大輔を一瞥した。整った毛並みと研ぎ澄まされた気迫が、狭い部屋を支配している。
「……君が繰り上げ合格の間大輔だな」
俊平は大輔と視線も合わせず、ネクタイを引き抜き、ジャケットのボタンを弾くように外しながら言った。大輔のサイズの合わない既製品の制服と、最後尾に追加された『〇八二』の番号だけで、事情を正確に読み取ったらしい。
「ああ。よろしく、神崎。まさか同じビーグルと組むとは――」
「馴れ合うつもりはない。手を動かせ、時間がなくなるぞ」
大輔が言い終わる前に、俊平は冷たい声で遮った。脱いだジャケットとスラックスをロッカーのハンガーへ秒単位の正確さでかけ、机の上に畳まれていた紺の作業服の封を破る。
「僕ら嗅覚ハウンド種は、水難救助の世界じゃ最初から規格外の外様だ。教官連中も、足手まといをひとまとめにして、共倒れで切り捨てるための『セット』にしたのさ」
大輔も唇を噛み、制服のポケットから真鍮のホイッスルを取り出した。ガチャン、とスチールロッカーの奥へ放り込むと、革靴を脱ぎ飛ばし、猛然と制服の上下を剥ぎ取った。
「だが、僕はここで落ちる気はない。一つだけ言っておくぞ」
俊平は白シャツを脱ぎ捨て、作業服のズボンと上着に素早く手足を通しながら、深い栗色の瞳で大輔を射抜いた。その黒い鼻先が、かすかにひくついている。
「さっき講堂で立ち上がったときから、斜め後ろの君から異様な匂いが漂っていた。この狭い部屋に入って確信したよ。鬼頭教官が『水泳訓練』と『海に沈む』という言葉を出した瞬間、君から異常な脂汗の匂いが立ち上ったな。同じハウンドの鼻をごまかせると思うなよ。……君、水が怖いのか?」
作業ズボンを引き上げていた大輔の手が、一瞬だけ止まった。
初対面のわずか数分で、自分が八か月間必死に隠し通してきた致命的な欠陥を、目の前の同族は匂いだけで嗅ぎ当ててみせたのだ。
「図星か」
俊平の声が、絶対零度まで冷え込んだ。作業服のジッパーを引き上げながら、吐き捨てるように言う。
「海で君が溺れかけたら、バディの義務として首根っこに噛みついてでも引き摺り上げてやる。だが、パニックを起こして僕の足を引っ張り、共に沈むような真似をしたら……水底に蹴り落としてでも、僕だけは這い上がる。僕自身の進退のためにね」
徹底した利己主義。本来なら群れ(パック)で声を掛け合いながら走るはずのビーグルが、ここまで同族を拒絶し、牙を剥いて孤立を選んでいる。だが、ジッパーの金具を掴む俊平の爪が強く軋み、指先が微かに震えているのを大輔は見逃さなかった。こいつもまた、大型犬たちの社会で相当な屈辱を噛み締め、ギリギリの崖っぷちに立っているのだ。
大輔は作業服の上着を引っ張り出し、袖を通しながら俊平の瞳を真っ直ぐに見据え返した。隠す必要がなくなった分、腹の底から黒い熱がせり上がってくる。
「……蹴り落とすだと? 甘いな」
「なに?」
大輔は作業服のジッパーを喉元まで一気に引き上げ、床の編み上げ安全靴に足をねじ込みながら言った。
「ああ、俺は水が怖い。洗面器の水に顔をつけることすらできない。……いざ海に入れば、俺は確実にパニックを起こして、お前を水底へ引きずり込むぞ」
俊平の瞳が、驚愕でわずかに見開かれた。
「俺に殺されたくないなら、俺が暴れた瞬間に躊躇なく顔面を殴り倒せ。気を失った俺の首根っこを咥えて、お前が一人で水面まで引き上げろ。俺は二度と、この手を離さないためにここに来たんだ」
一瞬の沈黙が落ちた。俊平は目の前の小柄な同族が、狂気に等しいトラウマを抱えたまま地獄へ飛び込んできた「正真正銘の爆弾」であることを理解した。
「……お前、正気か」
「残りあと一分だ! 廊下に出るぞ、急げ!」
俊平の狼狽を置き去りにし、大輔は安全靴の紐を乱暴に結び終えてドアノブを掴んだ。
二人のビーグル。巨大な同期たちの中で、最も小さく、最も危うく狂気じみたバディの時間が、教官の怒号が響く廊下へと弾け飛んだ。




