第2話 繰り上げ合格の通知
第1部 第2話:繰り上げ合格の通知
一月半ば。呉の狭い谷間を吹き抜ける風が、瀬戸内の冷たい湿気を帯びてガラス窓を揺らしていた。
ジャパウ沿岸警備学校、秋季採用試験の最終合格発表日。
午後一時ちょうど。沿岸警備隊の採用サイトを開いた間大輔の指先は、マウスを握る力が強すぎて爪がプラスチックに食い込み、関節が白く浮き出ていた。
画面をスクロールする。四桁の数字が整然と並ぶPDFファイルの中に、自分の番号を探した。手元の受験票に印字された『〇四一二』の数字と、青白いディスプレイを何度も往復する。
――ない。
大輔の番号があるべき場所は、前後の数字が無慈悲に飛び越えられ、冷酷な空白が広がっているだけだった。
「……やっぱり、そうだよな」
パイプ椅子の背もたれに深く倒れ込み、雨漏りの染みが浮いた天井を見上げる。
叔父の源蔵から願書を突きつけられた、あの五月の終わりから八か月が経っていた。
最初の挑戦だった夏の「沿岸警備大学校・初任幹部課程」は、一次の筆記試験であっさりと弾き返された。三か月のブランクと焦りで頭が回らず、大卒エリートたちの壁に爪先すら届かなかったのだ。
だが、大輔はそこでペンを折らなかった。不合格を報告に行った際、源蔵がパイプの煙を吐きながら放った「幹部が無理なら、舞鶴の現場から這い上がれ」という一言にすがりついたのだ。
池ノ浦の幹部への道が閉ざされたなら、現場の叩き上げを養成する舞鶴の「沿岸警備学校」がある。秋に行われるその採用試験に照準を切り替え、残された数か月、文字通り死に物狂いで机に向かった。
夜明け前のまだ暗い時間から、呉の両城にそびえる、天へ這い上がるような二百階段と、堺川沿いの硬いアスファルトを血を吐くような思いで走り込んだ。短距離の爆発力や筋力では、シェパードやドーベルマンといった大型犬種に到底敵わない。ただ一つ、獲物の匂いを何十キロでも追い続けるビーグル特有の「無尽蔵の心肺機能」だけを武器に、履き潰したシューズの中で足の肉球が擦り切れ、血が滲むまでタイムを削り出した。
だが、その血のにじむような努力が「究極の自己欺瞞」であることなど、大輔自身が一番よく分かっていた。
この八か月間、大輔は一度として水に「潜れ」なかったのだ。
走り終えてアパートの狭いユニットバスに入っても、シャワーの湯を頭からかぶることすらできなかった。顔に水滴が張りついた瞬間、気道が塞がるようなパニックに襲われ、便器にしがみついて黄色い胃液を吐いた。水底へ沈んでいくあの小さな手の記憶が脳裏に焼きつき、どうしても水の中で目を開けられないのだ。
採用試験の二次に「水泳」の実技が含まれていないことだけが、唯一の抜け道だった。水と向き合う恐怖から逃げるために、陸上で身体を痛めつけ「俺は努力している」と自分に言い訳をしていただけだ。
二次試験の面接で、前職のスイミングスクールを辞めた理由を問われたとき、大輔の喉はひきつり、面接官の鋭い視線から目を逸らしてしまった。どれほど筆記と持久走で限界まで点数を稼いでも、あの瞬間に自分の「致命的な欠陥」は見透かされていたのだ。
そんな狂気じみた小手先の誤魔化しが通用するほど、海の門は甘くはなかった。
叔父・源蔵の琥珀色の目が脳裏をよぎる。「学校もダメでした」と報告する勇気すらなく、再び塩素の幻臭と教え子の影に怯えながら、この六畳間で腐っていくしかないのか。乾いた喉の奥へ、鉛のように重い無力感が這い上がってきた。
それから、三週間が過ぎた。
二月の凍てつく寒気の中、源蔵には連絡できずにいたが、大輔は毎朝狂ったように暗い二百階段と川沿いの道を走り続けていた。走る理由を失ったはずの脚が、止まることを拒絶していた。走っていなければ、水から逃げ続けている底抜けの自己嫌悪に押し潰されてしまいそうだったからだ。
その日の夕方だった。
汗だくで帰宅し、畳に放り出していたスマートフォンが低い振動音を立てた。画面に表示されたのは、見慣れない固定電話の番号。市外局番は『〇七七三』――京都、舞鶴。
心臓が、肋骨の内側を強く蹴り上げた。
震える親指で通話ボタンをスワイプし、垂れた耳の奥へ押し当てる。
「……はい、間ですが」
『受験番号〇四一二、間大輔氏のお電話でよろしいでしょうか』
金属を打ち合わせたような硬く事務的な声が、鼓膜を揺らした。背筋に冷たい電流が走る。
「はい。間です」
『こちら、ジャパウ沿岸警備学校・総務課人事係です。先日発表されました採用試験の件でご連絡いたしました』
「……あの、俺の番号は、合格者一覧にはなかったはずですが」
かすれた声が漏れた。電話口の男は、一切の感情を排した声音で淡々と告げた。
『本日付で、正規合格者のうち一名が入校を辞退いたしました。採用規定に基づき、現在、補欠合格候補者名簿の上位より繰り上げ採用の意思確認を行っております』
「え……?」
『間氏、あなたは補欠順位第一位です。つきましては、四月入校の意思を確認いたします。受諾される場合、明日の十七時までに所定の承諾書をファックスにて送信いただき、一週間以内に必要書類一式を簡易書留にてご郵送いただきます。――いかがなされますか』
大輔の思考が、一瞬だけ真っ白に飛んだ。
補欠の第一位。面接での減点を、筆記と持久走の異常な数値でギリギリ相殺し、名簿の隅に引っかかっていただけだ。実力で正面から勝ち取った合格ではない。誰かが捨てた切符が、風に吹かれて最下位の自分の足元へ転がってきたに過ぎない。
だが、大輔の中に躊躇は一秒たりともなかった。
穴埋めで結構だ。エリートが蹴った残りカスでも構わない。門がほんのわずかでも開いたのなら、泥水を啜り、爪を剥がしてでもその敷居を跨ぐ。
「入校します。……入校します! 手続きをお願いします!」
『承知いたしました』
電話口の担当官は、微塵も声の温度を変えなかった。
『では、ご登録いただいているメールアドレスへ直ちに様式を送付いたします。明日の十七時までに必ずファックスをご送信ください。期日を過ぎた場合は辞退とみなし、次点候補者へ権利が移行いたしますのでご留意ください。それでは、失礼いたします』
ツー、と無機質な切断音が響いた。
劇的な祝福も、歓迎の言葉もない。ただの欠員補充の事務処理として、大輔の運命は決定された。
スマートフォンを握りしめたまま、大輔は畳の上に膝から崩れ落ちた。掌の肉球にはべっとりと冷たい脂汗が滲み、荒く乱れた呼吸が白い息となって暗い部屋に散っていく。
拾った命ならぬ、拾った切符だ。
京都、舞鶴。穏やかな瀬戸内の呉とは違う。海上防衛隊の灰色の護衛艦と巡視船が睨みを利かせ、日本海の鉛色のうねりと凍てつく季節風が吹き荒れる北の軍港都市へ、最下位の補欠として乗り込むのだ。
入校すれば、待っているのは容赦のない訓練だ。すぐにプールへ、そして冷たい海へと叩き込まれる。シャワーの飛沫にさえ怯え、陸上での努力に逃げ込んでいた今の自分が行けば、初日で化けの皮が剥がれ、文字通りの地獄を見ることは火を見るより明らかだった。
そのとき、スマートフォンの着信音が鳴り、人事係からのメールが届いたことを知らせた。添付された承諾書のデータを開く。この狭い六畳間に、プリンターもファックスもない。
「……行くぞ」
大輔は畳に手をついて立ち上がった。
机の引き出しを開け、奥にしまっていた真鍮のホイッスルを掴み出す。それをジャージのポケットへ深くねじ込み、小銭入れとスマートフォンを掴んで玄関へ飛び出した。
過去に置いていくのではない。この消えない罪と水への恐怖ごと、北の荒海の底へ連れていくのだ。
大輔はドアを蹴るように開け放ち、麓のコンビニエンスストアへ向かって、夕暮れの急な石段を飛ぶように駆け下りていった。激流へ飛び込むための重く分厚い鉄の扉が、凄惨な軋みを上げて今ようやく開いた。




