第1話:底の抜けたプール
第1部 第1話:底の抜けたプール
鼻腔の奥にこびりついて離れないのは、いつだってツンと粘膜を灼く塩素の臭いだった。嗅覚に優れたビーグルの鼻は、忘れたい記憶ほど執拗にその分子を拾い上げてしまう。
「先生。ぼく、今日は二十五メートル泳げるかな」
まだ耳の飾り毛も生え揃っていない、小柄なトイプードルの子供が、大輔のジャージの裾を引いていた。
二月の冷え込む夕暮れだった。暖房の効いた室内プールの白い湯気の向こうで、その屈託のない笑顔が不意に暗転する。水面の乱反射、集団指導の喧騒、ビート板が水を叩く音。その死角で揺らいだ、水底の小さな影。
飛び込んだときには、すでに遅かった。
大輔は万年床の上で膝を抱え、掌の中の真鍮製ホイッスルを強く握りしめた。
あの日から三か月が経ち、季節は梅雨入り前の湿気を帯びた五月の終わりへと移ろっていた。遮光カーテンを閉ざした六畳間には、安酒の空き缶と、手入れを怠った毛皮が蒸れたような重苦しい空気が澱んでいる。
呉の港から吹き上げる海風と、造船所のクレーンが軋む音から逃れるように窓を塞いだ築三十年の木造アパートは、急斜面の途中にしがみつくように建っていた。無数の石段を登りきった行き止まりにあるこの部屋は、昼間でも水底のように薄暗い。
掌のホイッスルは、かつて毎日首から下げていた相棒だった。捨ててしまえば楽になれると分かっていながら、これを手放せばあの子の最期まで忘れ去ってしまいそうで、罰を受けるように指の中で転がし続けていた。汗で温まった真鍮の感触が、あの日の冷たい記憶を容赦なく引きずり出してくる。
水底から抱き上げた体は、水を吸った巻き毛の重みとは裏腹に、骨格が驚くほど軽かった。
プールサイドの硬いタイルに横たえ、ぐったりした胸へ手を当てる。生徒の親たちに何度も教えてきたはずの救命手順を、震える手がなぞった。小さな顎を持ち上げて気道を確保し、裂けた口角から空気が漏れないようマズルを閉じさせ、濡れた鼻先へ自分の口を重ねて息を吹き込む。一度、二度。それから胸骨の中央へ手を重ねた。押すたび、未発達な肋骨が指の下でミシリと軋んだ。
同僚が貼りつけたAEDは、抑揚のない合成音声で『ショックは不要です』と繰り返すばかりだった。電気ショックでリセットできる微弱な痙攣すら起こしていない、完全な心静止を意味する絶望の宣告だった。
救急隊が到着するまで、大輔は名前を叫びながら胸を押し続けた。だが、口角から吐き出された生ぬるい塩素水とともに、指先から抜け落ちていく体温を止めることはできなかった。
「隠れていた先天性の不整脈だったそうです。大輔先生のせいではありません」
スクールの責任者はそう言って大輔の肩を叩いた。警察の聴取も終わり、監視体制に事件性はないとされた。大輔の法的過失を問う証拠もない。
だが、そんな言葉はなんの免罪符にもならなかった。安全を説き、笑顔で泳ぎ方を教え、子供たちの命を預かっているつもりだった。それなのに、すぐ足元の水底へ命が零れ落ちる瞬間、大輔の手は何も掴めなかったのだ。
「……くそが」
乾いた喉から吐き出した毒は、埃っぽい畳に吸い込まれた。
そのとき、大輔の黒い鼻先がひくついた。
外の急な石段を登ってくる規則正しい足音。直後、建て付けの悪いドアの隙間から、焚き火の燻煙に似たラタキア煙草の匂いと、何十年も潮風に晒された老犬特有の濃い体臭が流れ込んでくる。
玄関のドアが乱暴に二度叩かれた。大輔が息を潜めていると、鍵穴で金属が噛み合う無遠慮な音がした。ドアが開き、勝手知ったる重い足音が狭い廊下を軋ませる。
「……なんだ、この部屋は。シケた犬小屋でも、もう少し風が通るぞ」
低い嗄れ声とともに襖が開け放たれ、台所の換気扇が強引に回された。廊下の鈍い灯りを背負って立っていたのは、叔父の源蔵だった。
かつてジャパウ沿岸警備隊の大型巡視船で船長を務め、今は呉の海沿いで隠居している老イングリッシュ・ポインターだ。潮風と紫外線に灼かれた毛並みはところどころ白く退色し、左の額から垂れ耳の付け根にかけて、古い裂傷の跡が白く走っている。
源蔵は散乱した空き缶を足先で無造作に脇へ寄せ、畳に胡坐をかいた。内ポケットから取り出したのは、年季の入ったブライヤーのベントパイプだ。黒褐色の葉をボウルに詰め、マッチを擦る。シュッという硫黄の匂いのあと、燻製のような重い紫煙が立ち上り、部屋に充満していた幻の塩素臭を強引に塗り替えていく。
「……叔父さん。勝手に入るなよ。合鍵、返せって言っただろ」
「預かった覚えはあるが、返す約束をした覚えはない」
源蔵はパイプを咥えたまま、大輔を一瞥した。
「それより、顔も匂いも腐っとるぞ、大輔」
大輔は、握りしめていたホイッスルを咄嗟に背中の後ろへ隠した。
「……知ってるだろ。俺が何をやらかしたか」
「聞いた。親御さんに頭を下げ、逃げるように辞表を出したとな」
「俺は、もうプールサイドに立つ資格なんかない。あの子が沈んでいくのを、俺は――」
言葉が喉の奥でひきつった。あの日、掌の下で軋んだ肋骨の感触が蘇る。
「俺の手は、何も掴めなかった」
「そうか」
源蔵は短くそれだけ言った。慰めも、同情もない。その淡々とした響きが、大輔の擦り切れた神経を逆撫でした。
「『そうか』で終わりかよ! 俺が殺したのと同じなんだぞ!」
怒号を上げた拍子に、大輔の垂れた長い耳が激しく跳ねた。
「もう泳ぐのも怖い。コップの水を見るだけで足が震える。喉の奥に水が入ってくる気がして、息ができなくなるんだ!」
「なら、そのまま畳の上で溺れていろ」
源蔵の冷徹な一言が、大輔の悲鳴のような声を断ち切った。
「安酒を呷って、耳を垂らして、暗がりで死んだ子の匂いを噛み締めていれば、あの子が水底から浮かんでくるのか」
「……っ」
「水に関わる仕事を選べば、そういう死の穢れからは一生逃げられん。お前が背負ったものは消えんよ。死ぬまで毛皮に染みついて残る。だがな、残るからといって、生きているお前がここで腐る理由にはならん」
源蔵は懐から二つ折りの茶封筒を取り出し、大輔の膝へ無造作に放った。中から厚手のパンフレットが滑り出る。荒れ狂う鉛色の外洋。濃紺の制服。ヘリコプターから波間へ降下する救難員の姿。
『ジャパウ沿岸警備大学校 初任幹部課程 募集要項』
その下に、折り目のついた出願用紙と、大輔の母校の封筒に入った卒業証明書が挟まっていた。消印有効の締切日は、三日後に迫っている。
「……なんだよ、これ」
「見ての通り、受験案内だ。必要な証明書はお前の実家から回収してきた」
「ふざけるなよ。俺は民間のインストラクター崩れだぞ」
「四大を出たお前が幹部課程を受けられるのは、二十四の今年が最後だ。だから持ってきた」
「冗談じゃない! 吉浦の海沿いにある池ノ浦の大学校がどんな場所か、呉に住んでりゃ嫌でも分かるだろ。俺みたいな小柄なビーグルが入れるわけがない。水かきを持ったレトリーバーや、警察犬血統のシェパードばかりが集まる、大型犬エリートの巣窟じゃないか!」
競泳の選手時代からそうだった。どれほどフォームを磨いても、生まれつき体格に恵まれ、水を掴む脚を持った水猟犬たちの推進力には勝てなかった。その劣等感から逃げるように選んだ町のスイミングスクールでさえ、自分は何も守れなかったのだ。
「海は血統書を見て手加減してくれるのか」
源蔵の琥珀色の目が、煙の向こうで細くなった。
「図体のデカい大型犬だろうが、水猟犬だろうが関係ない。転覆した船の暗い底では、体格より先に、酸素と判断力が尽きる。そこで最後にモノを言うのは、狭所に潜り込む身のこなしと、暗闇で生者の気配を嗅ぎ分ける『猟犬』の執念だ」
「……俺に、何ができるっていうんだ」
「今はまだ何もできん」
源蔵の答えは即答だった。
「だから一から鍛え直せ。安全な温水で泳げるつもりの奴ではなく、冷たい死の淵から、溺れている者を無理やり引きずり出して連れて帰れる奴になれ」
源蔵は腰を浮かせ、大輔の肩に分厚く重い掌を置いた。華奢な鎖骨が軋むほどの重圧だった。
「羽田の特殊救難隊を知っとるな」
「……ああ」
大輔も名前だけは知っている。転覆船の暗所や危険物船の火災、誰も近づけない荒れ狂う外洋へ真っ先に投下される、海難救助の最後の砦。オレンジ色の救難服を纏った精鋭たちだ。
「大学校に入ったからといって、そこへ行けるわけじゃない。現場に出て、選ばれて、吐くまで鍛え抜かれて、それでも心が折れずに残った一握りのバケモノだけが辿り着く場所だ」
「なら、なおさら俺には無理だ……」
「そう思うなら、その紙を破り捨ててまた寝ろ」
源蔵は立ち上がり、玄関へ向かった。錆びたドアノブに手をかける。
「苦しい。疲れた。もう息ができない――その言葉はな、暗い水の中で助けを待っている者のために取っておけ」
源蔵は振り返らなかった。
「救う側を名乗るなら、まず自分のその震える手を使えるようにしろ。証明写真は表通りで撮ってこい。死にたいなら、ポストに投函してから死ぬんだな」
バタン、と重い音を立ててドアが閉じた。部屋に再び静寂が戻る。
だが、さっきまでの腐った空気とは違っていた。染みついた塩素の記憶も、湿った畳の匂いも消えてはいない。それでも、その奥に、源蔵が残していった強い潮風と燻煙の匂いが、確かな輪郭を持って漂っていた。
大輔は膝の上の募集要項を見つめた。
表紙の写真に写る荒れ狂う波間を見た瞬間、喉の奥がひゅうっと鳴り、胃の腑が激しくせり上がった。畳に手をついてえずく。苦い胃液が舌を灼き、冷や汗が全身の毛穴から噴き出した。
小柄な体。大型犬に負け続けた過去。肋骨が軋むあの感触。水を見るだけで震え上がる自分の脚。今すぐこの紙を破り捨てて、布団の暗闇へ潜り込みたかった。そうすれば、もう二度と誰の命も取り落とさずに済む。
だが、背中の後ろに隠していたホイッスルが、掌に冷たく食い込んだ。
このままここで腐れば、あの子が最後に見た「先生」は、ただの臆病者のまま終わる。
胸の奥で黒く澱んでいたタールのような塊が、じわりと痛みを伴う熱を持ちはじめていた。大輔は荒い息を吐きながら、真鍮のホイッスルを自らの奥歯でギリ、と強く噛み締めた。金属の冷たい味が口中に広がる。
空き缶の脇に転がっていた黒のボールペンを拾い上げ、募集要項のページをめくる。そこに印字された『特殊救難隊』という五文字を、大輔は震える爪先で強く、紙が凹むほどになぞった。
それから出願用紙を引き寄せ、氏名欄にペン先を置いた。恐怖と過呼吸の名残で、腕の震えは止まらない。紙に落とした最初の一画は、無様に大きく歪んだ。
それでも大輔は、ペンを離さなかった。ホイッスルを噛み砕かんばかりに顎に力を込め、紙を突き破るほどの筆圧で、一文字ずつ、自分の名前を刻み込んでいく。
書き終えた文字は、情けないほど曲がっていた。だが、それは底の抜けたあの日から三か月ぶりに、大輔が自分の手で確かに掴み取った最初の「重み」だった。




