↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第4部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/72

第70話 鎮火の錯覚、潜熱の牙

第4部 第70話:鎮火の錯覚、潜熱の牙

 ゴオオォォォッ……!!

 源統括教官の合図とともに点火スイッチが押し込まれた瞬間、模擬機関室の分厚い耐火ハッチの奥から、腹腔を揺るがす爆発的な点火音が響き渡った。

 三階吹き抜けの鉄骨構造を一瞬で舐め尽くす猛烈な紅蓮の炎。

 プロパンバーナーと重油ノズルから噴き上がった炎は、機関室の主機(ディーゼルエンジン)モックアップを瞬く間に包み込み、黒煙が渦を巻いて天井のダクトへ突入していく。

 鋼鉄の外壁が熱でピシピシと軋みを上げ、ハッチの隙間から噴き出す熱波は、数メートル離れた位置でも毛皮を焦がすほどだった。

「第一小隊、進入ッ!!」

 源教官の怒号が飛ぶ。

 シルバーの耐熱防火衣に身を包み、空気呼吸器(SCBA)の面体をマズルに圧着させた第一小隊の先頭で、現場指揮官の腕章を巻いたボーダーコリー・宮武修二が鋭く腕を振り下ろした。

「ハッチ開放! 噴霧注水で熱気障壁を展開しろ! 先頭ノズル、島尾! 補助、黒田!」

「了解ッ!」

 最前線に躍り出たのは、南西諸島の荒海で鍛え抜かれたゴールデン・レトリーバーの島尾と、鋼の膂力を誇る黒ラブラドールの黒田だった。

 耐火ハッチが押し開かれた瞬間、吹き出す摂氏数百度の濃煙と熱気。

 島尾が構える五十ミリノズルから、ザァァァッ! と高圧の微粒子噴霧(フォグ)が放たれ、熱波を物理的に遮断する水のカーテンを形成する。島尾の足元を、後方から黒田の屈強な両腕がガッチリとロックし、激しい噴射反圧を微動だにせずねじ伏せた。

「ホースマン、前へ! 安藤、ラインの屈曲(キンク)を殺せ! 神尾、田宮、残気圧を監視しながら熱気排出口を確保!」

 面体内の無線マイクを通じ、宮武の冷静沈着な指示が矢継ぎ早に飛ぶ。

 ニューファンドランドの安藤が怪力で重い水充填ホースを送り込み、ラブラドールの田宮が後方を固める。短頭種のフレンチブルドッグ・神尾の荒い呼吸を考慮し、宮武は彼を熱気の直撃ルートから外し、排煙口のダンパー操作に回す完璧な配置を敷いていた。

「主機左舷側の燃料供給弁へ直進! 直射注水に切り替え、火元を叩け!」

 ドバシャァァァンッ!

 島尾がノズルレバーを一気に押し込む。棒状の鋭い水流が主機のシリンダーヘッドを直撃し、白煙と水蒸気が爆発的に噴き上がった。

 熱気で視界はゼロに等しい。だが、宮武は床面の傾斜と配管のレイアウトを頭脳に叩き込んでいた。

「残火へステップ移動! 三、二、一――放水止め!」

 開始からわずか四分三十秒。

 激しく吹き荒れていた炎の舌は完全にへし折られ、機関室モックアップ内を満たしていたのは、消火完了を示す濃密な白い水蒸気だけだった。

「主機周辺、火勢鎮圧! 残火なし!」

 島尾が肩で息をしながら叫ぶ。

 宮武は煤まみれの防火衣のまま主機周辺を素早く巡回し、主機架台、燃料パイプの継ぎ目、発電機モックアップを目視で確認した。

 炎の光はない。足元に広がるのは冷却水のみ。

 昨日の暗黒潜水で味わった限界を完全に払拭する、電光石火の完全鎮圧。

 宮武はハッチの外に立つ源教官へ向けて、誇らしげに無線を飛ばした。

「現場指揮官・宮武! 第一小隊、機関室の火元を完全制圧! 区画内、異常なし!」

 完璧な報告だった。

 だが――ハッチの外で腕を組んでいた源統括教官は、頷きもしなければ、ストップウォッチを止めもしなかった。

 ただ傷だらけのマズルを歪め、冷酷な光を宿した瞳で、煙の奥をじっと見据えている。

(……間抜けめが。『表面の炎』しか見えん奴は、現場で背中を焼かれる。火を甘く見すぎだ)

 その直後だった。

 シュー……という、何かが油を吸い上げる不気味な微小音が、蒸気の奥から響いた。

 宮武の背筋に、氷のような悪寒が走った。

 主機の排気管に巻かれた分厚い耐熱被覆材(ラギング)。放水によって表面の炎は消え去っていたが、内部に深く染み込んだ数リットルの重油スラッジは、数百度の潜熱を抱え込んだまま沸騰していたのだ。

 小隊が消火完了と焦って放水を止めたことで、表面の冷却・窒息効果が失われ、気化した燃料が一気に発火点を超えた。

 ボッ。

 ボオオオォォォォンッ!!

 突如としてラギングが内側から弾け飛び、機関室の天井を舐め尽くす巨大な火柱が、爆発的な轟音とともに噴き上がった。

「――ッ!?」

 声すら出ない。熱波の爆風が第一小隊を容赦なく薙ぎ払い、島尾と黒田が巨躯ごと鋼鉄の床へ吹き飛ばされる。

 再燃――冷却不足の潜熱が引き起こした、最悪のフラッシュファイア。

 呼吸器の面体の奥で、宮武の聡明な双眸が、信じがたい絶望に大きく見開かれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。