第70話 鎮火の錯覚、潜熱の牙
第4部 第70話:鎮火の錯覚、潜熱の牙
ゴオオォォォッ……!!
源統括教官の合図とともに点火スイッチが押し込まれた瞬間、模擬機関室の分厚い耐火ハッチの奥から、腹腔を揺るがす爆発的な点火音が響き渡った。
三階吹き抜けの鉄骨構造を一瞬で舐め尽くす猛烈な紅蓮の炎。
プロパンバーナーと重油ノズルから噴き上がった炎は、機関室の主機モックアップを瞬く間に包み込み、黒煙が渦を巻いて天井のダクトへ突入していく。
鋼鉄の外壁が熱でピシピシと軋みを上げ、ハッチの隙間から噴き出す熱波は、数メートル離れた位置でも毛皮を焦がすほどだった。
「第一小隊、進入ッ!!」
源教官の怒号が飛ぶ。
シルバーの耐熱防火衣に身を包み、空気呼吸器(SCBA)の面体をマズルに圧着させた第一小隊の先頭で、現場指揮官の腕章を巻いたボーダーコリー・宮武修二が鋭く腕を振り下ろした。
「ハッチ開放! 噴霧注水で熱気障壁を展開しろ! 先頭ノズル、島尾! 補助、黒田!」
「了解ッ!」
最前線に躍り出たのは、南西諸島の荒海で鍛え抜かれたゴールデン・レトリーバーの島尾と、鋼の膂力を誇る黒ラブラドールの黒田だった。
耐火ハッチが押し開かれた瞬間、吹き出す摂氏数百度の濃煙と熱気。
島尾が構える五十ミリノズルから、ザァァァッ! と高圧の微粒子噴霧が放たれ、熱波を物理的に遮断する水のカーテンを形成する。島尾の足元を、後方から黒田の屈強な両腕がガッチリとロックし、激しい噴射反圧を微動だにせずねじ伏せた。
「ホースマン、前へ! 安藤、ラインの屈曲を殺せ! 神尾、田宮、残気圧を監視しながら熱気排出口を確保!」
面体内の無線マイクを通じ、宮武の冷静沈着な指示が矢継ぎ早に飛ぶ。
ニューファンドランドの安藤が怪力で重い水充填ホースを送り込み、ラブラドールの田宮が後方を固める。短頭種のフレンチブルドッグ・神尾の荒い呼吸を考慮し、宮武は彼を熱気の直撃ルートから外し、排煙口のダンパー操作に回す完璧な配置を敷いていた。
「主機左舷側の燃料供給弁へ直進! 直射注水に切り替え、火元を叩け!」
ドバシャァァァンッ!
島尾がノズルレバーを一気に押し込む。棒状の鋭い水流が主機のシリンダーヘッドを直撃し、白煙と水蒸気が爆発的に噴き上がった。
熱気で視界はゼロに等しい。だが、宮武は床面の傾斜と配管のレイアウトを頭脳に叩き込んでいた。
「残火へステップ移動! 三、二、一――放水止め!」
開始からわずか四分三十秒。
激しく吹き荒れていた炎の舌は完全にへし折られ、機関室モックアップ内を満たしていたのは、消火完了を示す濃密な白い水蒸気だけだった。
「主機周辺、火勢鎮圧! 残火なし!」
島尾が肩で息をしながら叫ぶ。
宮武は煤まみれの防火衣のまま主機周辺を素早く巡回し、主機架台、燃料パイプの継ぎ目、発電機モックアップを目視で確認した。
炎の光はない。足元に広がるのは冷却水のみ。
昨日の暗黒潜水で味わった限界を完全に払拭する、電光石火の完全鎮圧。
宮武はハッチの外に立つ源教官へ向けて、誇らしげに無線を飛ばした。
「現場指揮官・宮武! 第一小隊、機関室の火元を完全制圧! 区画内、異常なし!」
完璧な報告だった。
だが――ハッチの外で腕を組んでいた源統括教官は、頷きもしなければ、ストップウォッチを止めもしなかった。
ただ傷だらけのマズルを歪め、冷酷な光を宿した瞳で、煙の奥をじっと見据えている。
(……間抜けめが。『表面の炎』しか見えん奴は、現場で背中を焼かれる。火を甘く見すぎだ)
その直後だった。
シュー……という、何かが油を吸い上げる不気味な微小音が、蒸気の奥から響いた。
宮武の背筋に、氷のような悪寒が走った。
主機の排気管に巻かれた分厚い耐熱被覆材。放水によって表面の炎は消え去っていたが、内部に深く染み込んだ数リットルの重油スラッジは、数百度の潜熱を抱え込んだまま沸騰していたのだ。
小隊が消火完了と焦って放水を止めたことで、表面の冷却・窒息効果が失われ、気化した燃料が一気に発火点を超えた。
ボッ。
ボオオオォォォォンッ!!
突如としてラギングが内側から弾け飛び、機関室の天井を舐め尽くす巨大な火柱が、爆発的な轟音とともに噴き上がった。
「――ッ!?」
声すら出ない。熱波の爆風が第一小隊を容赦なく薙ぎ払い、島尾と黒田が巨躯ごと鋼鉄の床へ吹き飛ばされる。
再燃――冷却不足の潜熱が引き起こした、最悪のフラッシュファイア。
呼吸器の面体の奥で、宮武の聡明な双眸が、信じがたい絶望に大きく見開かれた。




