第69話 焦熱の迷宮、機関室火災訓練
第4部 第69話:焦熱の迷宮、機関室火災訓練
羽田特殊救難基地、訓練二日目――〇八〇〇。
初日の泥濘と潜水槽の冷気から一転、候補生たちの前に立ちはだかったのは、重油と錆、そして焼け爛れた塗料の異臭を放つ巨大な鋼鉄の塊だった。
基地の北側区画に鎮座する、実寸大船舶火災訓練施設――通称「バーニング・モックアップ」。
三階建ての商船の機関室をそのまま地上に再現したその鉄の要塞は、無数の煤に覆われ、まるで幾多の命を呑み込んできた棺桶のような威圧感を放っていた。
整列した十二名の前で、源統括教官が耐熱グローブをはめた拳で、冷たい外壁をガンッ! と暴力的に殴りつけた。
「二日目の課目は、実火災消火・閉鎖区画進入訓練だ。……貴様らにはこれより、この模擬機関室の内部火災を制圧してもらう」
源の濁った重低音が、張り詰めた朝の空気を裂く。
「機関室は、船内で最も火災リスクが高く、最も凄惨な地獄と化す場所だ。主機、発電機、網の目のように張り巡らされた高圧燃料パイプ、そして数千リットルの潤滑油。ひとたび火が回れば、熱気は摂氏八百度を超え、鋼鉄のラッタルは飴細工のように溶け落ちる。ここを制圧できん奴に、東京湾の炎上船へ飛び込む資格など一ミリもない」
源教官は傷だらけの顔を歪め、十二名の候補生たちを冷徹に睨み据えた。
「装備は官給耐熱防火衣、および陽圧式空気呼吸器(SCBA)。……言っておくが、貴様らの肉体にとって、この訓練は水深十五メートルの暗黒以上に致命的な毒となる」
その言葉の真意を、候補生たちは嫌というほど理解していた。
犬の体温調節は、呼吸による気道からの放熱と、肉球からの微小な発汗のみに依存している。分厚い耐熱服を着込み、マズルにゴム製の呼吸器面体を圧着された瞬間、外部への放熱ルートは完全に遮断される。内部に熱がこもれば、数分で深部体温は四十度を超え、脳が煮えるような熱中症の危機に晒されるのだ。
特に二重被毛を持つ北方犬の谷崎、吸気抵抗の大きい短頭種の大田原や神尾にとって、この焦熱の迷宮は身体を内側から焼き尽くす拷問に等しかった。
「熱気に当てられれば、貴様らは本能的に舌を出し、荒い呼吸で熱を逃がそうとするだろう。だが、密閉されたマスクの中でそれをやれば、冷却効果がゼロなばかりか、無駄な排気によってシリンダーの残圧を瞬時に食いつぶすことになる」
源の双眸に、殺気にも似た光が宿る。
「本能に負けて喘いだ奴から、三分で空気が底をついて窒息死する。……生きたければ、炎の中で己の獣を殺せ」
源教官の宣告に、候補生たちの間に氷のような緊張が走った。
「本課目は六名ずつの二個小隊に分かれて進入する。田中、チームを発表しろ!」
「了解!」
田中助教がクリップボードを掲げ、冷酷に編成を読み上げた。
第一小隊
黒田鉄平、島尾健司、安藤アサギ、田宮裕太、神尾洸平、宮武修二
第二小隊
間大輔、神崎俊平、桧垣明、大田原慶彦、谷崎陽太、佐藤亮太
大輔は、ゴクリと固唾を呑んだ。
昨日、過呼吸によるパニックで無様に引き揚げられた自分。昨晩は絶望のあまり自ら荷物をまとめかけたが、高所降下で恐怖をねじ伏せた大田原の不格好な背中を見て、逃げることだけは思いとどまった。
その大田原と同じ小隊。そして、冷静に全体を見据える俊平と明、巨躯の谷崎、泥臭い佐藤がいる。
源教官の剃刀のような眼光が、大輔と大田原を射抜いていた。
(試されている……!)
言葉はなくとも、その視線が背負わせる圧倒的なプレッシャーが、大輔の首筋に冷たい汗を伝わせた。
「第一小隊は先鋒として火元区画の捜索および初期消火! 第二小隊は直後に進入し、要救助者ダミーの救出および残火処理を行え! 熱気に巻かれて倒れた奴は、そのまま炭にして転がしておくぞ。装具着装、急げッ!!」
「「「了解ッ!!」」」
十二頭の腹の底からの咆哮とともに、シリンダーのバルブが開く甲高い金属音が、焦熱の訓練場に次々と響き渡った。




