第68話 踏み出す爪先、泥臭き降下
第4部 第68話:踏み出す爪先、泥臭き降下
「跳べ、大田原ッ! 下を見るな、自分の右腕だけを信じろ!」
二十メートルの塔の真下から、ニューファンドランドの谷崎が七十キロの巨躯を震わせて咆哮した。
「命綱は繋がってる! 己の力で命を握り潰す気で引けッ!」
「大田原、お前が目指したのは誰だ!」
ゴールデン・レトリーバーの島尾もまた、泥にまみれた拳を握りしめて見上げる。
「神田さんの名前を背負って来たんだろ! なら、ここで意地でも落ちるなッ!」
地上からの怒号が、吹き荒れる突風を切り裂いて大田原の耳朶を打つ。
――神田。
憧れ続けた生ける伝説の背中。どんな絶望的な海でも、決して命の前で足を止めなかったあの男の姿。
落下事故の記憶が脳髄を締め上げ、胃液が逆流する。だが、骨が軋もうと、喉が裂けようと、前へ進むのが潜水士の業ではないのか。
「フゴッ……フゴッ……フゴーッ!」
大田原は短頭種の喉を狂おしく鳴らし、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
恐怖で岩のように固まった両膝の関節を、自らの意志で叩き割るようにして、無理やり鉄骨の縁から虚空へとブーツを踏み出す。
ガクンッ!
身体が暴力的な重力に引かれた瞬間、フルボディハーネスのD環が甲高い金属音を立ててカーンマントルロープを噛んだ。
――浮いた。
心臓が喉から飛び出そうになり、背筋に氷の刃を突き立てられたような悪寒が走る。
だが、大田原は目を閉じなかった。
左の案内手でロープを握り、利き手である右の制動手を腰の後ろへ力任せに回し、摩擦角を最大にしてロープを万力のように締め上げる。
他の候補生のように、制動手をリズミカルに緩めて一気に滑り降りることなど到底できない。一ミリでもロープを緩めれば、そのままあの日のように墜落してしまうというトラウマが、右腕の筋肉を強直させているのだ。
大田原はロープを完全にロックした状態から、自身の体重と力技だけで摩擦をこじ開けるようにして、強引にロープを滑らせた。
ズッ……ズッ……と、わずか数十センチずつ。
異常な摩擦熱によってエイト環と分厚い牛革グローブから焦げた匂いが立ち上り、ロープを握り潰す右腕の筋肉が断末魔の悲鳴を上げる。それでも一段、また一段と、亀のような速度で垂直のコンクリート壁をブーツの爪先で探りながら降りていく。
「フゴォォッ……フゴッ……!」
荒い鼻息とともに、額から大粒の脂汗が宙を舞う。
不格好極まりない、見栄えの欠片もない降下。
だが、大田原の爪先は決して壁から離れず、腰の後ろでロープを握る拳は、死んでも一ミリたりとも緩むことはなかった。
トン。
二十メートルの虚空を越え、両足の官給編上靴が、硬いアスファルトを踏みしめた。
「着地……完了ッ……!」
大田原はその場に両膝をつき、肩を激しく上下させて熱い息を吐き出した。
牛革グローブは異常摩擦による高熱で白煙を上げ、腕は激しい痙攣で指一本開かない。
「規定時間大幅超過、および動作不良。大田原、減点五点」
ストップウォッチを手にした田中助教が、機械のように感情を削ぎ落とした声で宣告した。
だが、大田原の潰れたマズルの奥からは、安堵と誇りの混じった熱い吐息が零れていた。
減点。特救隊の基準からすれば失態に違いない。けれど、あの二年前の「墜落」以来、一度たりとも越えられなかった恐怖の奈落を、己の腕力と執念だけで降りきったのだ。胸の奥で凍りついていた冷たい澱が、音を立てて砕け散っていく。
キャットウォークからその姿を見下ろしていた源統括教官は、ただ無言のまま、冷徹な死神の眼差しで一頭の生存者を見据えていた。
グラウンドの片隅。
医務室を抜け出し、吹き抜ける風の中でその一部始終を見届けていた大輔の胸を、鋭利な刃物がえぐり取っていた。
恐怖に喉を詰まらせ、激痛に顔を歪めながらも、絶対に命綱を手放さなかった大田原。
それに引き換え、水に入る前から過去の亡霊に呑まれ、パニックを起こして仲間の前で無様に命綱を手放した自分は、いったい何なのだ。
ぎり、と握りしめた大輔の拳の爪が、己の掌の分厚い肉球へ深く食い込み、限界まで圧迫された神経がどす黒い自己嫌悪とともに鈍い痛みを訴え続けていた。




