第67話 断ち切られた命綱、宙吊りの悪夢
第4部 第67話:断ち切られた命綱、宙吊りの悪夢
訓練塔の頂上、地上二十メートルの鉄骨の上で、大田原の視界は激しく明滅していた。
吹き抜ける東京湾の突風が、パグの身体を奈落へ引きずり込もうと乱暴に揺さぶる。足元を見下ろせば、アスファルトのグラウンドに立つ教官や候補生たちが、豆粒のように小さく霞んでいた。
キュルキュルと軋む滑車の回転音。
カラビナが鉄骨と擦れ合う無機質な金属音。
その冷酷な響きが、大田原の脳髄の奥底に封印されていた「あの日」の記憶を、鮮烈な痛覚とともに引きずり出していた。
第七管区・門司の巡視船に乗り組んでいた、二年前の初夏。
玄界灘で急速に発達した爆弾低気圧に備え、ボートデッキの重力式ダビットに吊り上げられた高速警備救難艇の固縛を補強する緊急作業中だった。
波飛沫が打ち付け、激しくローリングする船上で、舷外に張り出した艇へ身を乗り出す危険な作業。大田原は規定通り、官給品の安全帯のフックを強固な手すりに掛け、体重を預けて鋼鉄のワイヤーを引き絞っていた。
だが、船体を巨大な三角波が打ち据え、巡視船が三十度近く左舷へ急傾斜した、まさにその刹那だった。
プツンッ。
鈍く、しかし決定的な破断音。
経年劣化と内部への塩分浸透で傷んでいた安全帯の繊維が、突発的な荷重に耐え切れず、唐突に引きちぎれたのだ。
(あ――)
視界が反転した。
頼るべき手すりも、体重を支えていた張力も、一瞬にして消え去った。
身体が宙に浮き、暴力的な重力に引かれて落下していく。真下にあったのは、救いの海面ではなく、鋼鉄の配管が剥き出しになったボートデッキだった。
ガガァァァンッ!
骨が弾け飛ぶような破砕音とともに、頭部と右肩からデッキへ叩きつけられた。
ヘルメットが真っ二つに割れて即死だけは免れたものの、右腕は原型を留めないほど複雑骨折を負い、折れた肋骨が肺を貫いた。
息ができない激痛。口いっぱいに広がったどす黒い鉄の味。
そして何より、空中で信じていた命綱がプツリと消え失せた瞬間の、あの「底のない虚無感」。
身体の芯を貫いた絶対的な死の冷気が、今も大田原の骨の髄に重い鉛となってへばりついている。
(跳べ……跳ばなきゃダメだ。午前の間のパニックで、俺たち第三班は連帯失格のどん底にいる。俺がここで完璧な降下を決めなきゃ、あいつも俺も、全員が元のフネへ強制送還だ……!)
焦りが、心臓を早鐘のように打たせる。
「どうした大田原ァッ! 足が竦んでいるぞ!」
塔の真下から、田中助教のメガホン越しの怒号が突き刺さる。
「フゴッ……ヒューッ……!」
大田原の潰れた鼻腔から、引き攣れたような異常な呼気が漏れ出す。
浅い眼窩に見開かれた両眼が、二十メートルの奈落を捉えて激しく痙攣していた。エイト環を通した制動側のロープを握りしめる太い右腕は、冷や汗で毛並みが張り付き、掌の肉球から完全に血の気が失せて硬直している。
完治したはずの肋骨の奥が、死の記憶を呼び起こすようにズキリと疼いた。
エイト環にロープを架け、制動手を腰に回し、身体を後方へ倒して空中に体重を預ければいい。頭では分かっている。特救隊の官給カーンマントルロープが切れるはずがないことも、百も承知だ。
だが、ブーツが一ミリも前へ出ない。
鉄骨の端に掛けた爪先が凍りついたように竦み、全身の筋肉が過去の恐怖に縛り付けられていた。
その時――。
酸素マスクをかなぐり捨て、医務室を抜け出してフラフラとグラウンドへ這い出てきた大輔の双眸が、はるか頭上の大田原の異変を鋭く捉えた。
(……なんだ、あの震え方は)
距離があって表情までは見えない。だが、ロープを握る大田原の腕が異常なほど強張っていること、そして、肩が浅く不規則に上下している動きが、大輔にははっきりと見て取れた。
大輔の背筋に、冷たい戦慄が走る。
数時間前、暗黒の潜水槽の淵で、自分自身が恐怖に喉を詰まらせて床に倒れ伏した時と――寸分違わぬ、絶望のパニックの兆候だった




