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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第4部

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第66話 失格の烙印、揺らぐ足場

第4部 第66話:失格の烙印、揺らぐ足場

 ピピピピィィッ!

 静まり返った訓練棟に、源統括教官の容赦のないホイッスルが甲高く突き刺さった。

「第三班、課目不合格! 間を直ちに医務室へ搬送しろ!」

 源の冷徹な宣告が、無機質なコンクリートの壁に反響する。

 ニューファンドランドの谷崎とゴールデン・レトリーバーの島尾が、痙攣で動かない大輔の両脇を抱え上げ、プールサイドから運び出していく。

 その光景を水際で見下ろしていた俊平は、己の拳を爪が皮膚を裂くほど強く握り締めていた。力なく運ばれていく相棒の背中を睨み据えるその琥珀色の瞳には、同情など微塵もない。

(ふざけるな、大輔……。てめえの過去の亡霊に負けて、俺との『羽田で白黒つける』って約束から逃げ出す気かよ)

 海難現場において、バディの喪失は己の死に直結する。

 こうして、羽田特殊救難隊の最初の関門――暗黒潜水捜索訓練は、第三班にとって最悪の絶望とともに幕切れを告げた。

     *

 午後十三時過ぎ。

 消毒液のツンとした刺激臭が漂う医務室で、大輔は重い瞼を押し開けた。

 パルスオキシメーターが指先で微かな電子音を刻み、マズルを覆う酸素マスク特有の無機質で乾いた空気がへばりついていた。

「……っ」

 荒れ狂っていた呼吸はすでに整っていた。だが、過換気によって引き起こされた呼吸性アルカローシスの名残で、四肢の筋肉には冷たい鉛を流し込まれたような重怠さが残っている。

 白い天井を見上げた瞬間、自分が何をしでかしたのかが急速に脳裏を灼いた。

 ――足がすくみ、呼吸を奪われ、仲間の前で無様に命綱を手放した。

 底知れぬ屈辱と自己嫌悪が、胃の腑を雑巾のように絞り上げる。

 どんな極限の底からでも命の手を離さない――そう誓って羽田へ乗り込んできた自分が、水に入る前の陸上で、自らの恐怖に呑まれて脱落したのだ。

 傍らでカルテにペンを走らせる衛生官は、一言も言葉を発しない。ただ「心因性過換気発作」という致命的な文字列を記録し、無言で立ち去っていった。

 その沈黙が、何よりも恐ろしかった。

 心因性のパニック。それは潜水士にとって、死刑宣告と同義だ。次、同じ発作を起こせば選考除外だけでは済まない。巡視船の潜水士資格そのものが未来永劫剥奪される「適性停止」が下る。

 崖っぷちなどという生易しいものではない。すでに片足は、完全な奈落へと踏み出していた。

 その時――開け放たれた窓の外から、けたたましい金属音と怒号が海風に乗って飛び込んできた。

 大輔は鉛のように重い身体を引きずってベッドを降り、窓辺へと歩み寄った。

 外の訓練場に聳え立っていたのは、高さ二十メートルを超える鉄骨造りの降下訓練塔だった。

 午後の課目――「高所降下・ロープ救助訓練」。

 ヘリからのホイスト降下や、炎上する巨大タンカーの甲板への進入を想定した、特救隊のもう一つの生命線。

 塔の最上階。手すりのない鉄骨のキャットウォークの先端に、フルボディハーネスを身に纏い、一本のカーンマントルロープに繋がれて立っていたのは、パグの大田原慶彦だった。

「どうした大田原ッ! エイト環の制動手(ブレーキ)を腰に回せ! 身体を空へ投げ出せッ!!」

 地上から、田中助教の怒号が響く。

 だが、大田原のずんぐりとした身体は、鉄骨の縁で小刻みに激しく震えたまま、岩のように硬直していた。

 パグ特有の浅い眼窩に収まる大きな両眼は、足元に広がる二十メートルの虚空を捉えたまま明滅し、潰れた鼻腔からはヒューヒューと喉を詰まらせる異様な呼気が漏れ出している。

 ロープとエイト環を握る右手の肉球から完全に血の気が失せ、爪が食い込むほど強直している。体重を空中に預けるための「後方への傾斜姿勢」が、何度やろうとしても弾かれたように戻ってしまうのだ。

 午前の潜水訓練で、大輔のパニックにより第三班が「連帯失格」の烙印を押された焦り。午後で挽回しなければ後がないという極度のプレッシャーが、かつて彼が現場で経験した「落下事故のトラウマ」を容赦なく呼び覚まし、肉体を完全に支配していた。

 門司の荒海を泥臭く泳ぎ抜き、神田に憧れて羽田の門を叩いたパグの猛者。

 その大田原の肉体が、許容量を超えるストレスの前に悲鳴を上げている。

 暗黒の水面で記憶の亡霊に呑まれた大輔と、遥かな高みで過去の恐怖に足元をすくわれた大田原。

 羽田特救隊の苛烈な試練は、候補生たちの心の奥底に隠された「致命的な急所」を、寸分の狂いもなく正確に抉り出していた。

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