第65話 逆流する記憶、凍てつく爪先
第4部 第65話:逆流する記憶、凍てつく爪先
「……なぜ第三班だけ、あれほど条件を跳ね上げたのですか」
激流逆巻く白泡の潜水槽を見下ろしながら、田中助教が硬い表情で源統括教官へ耳打ちした。
源教官は視線を水面から外さず、無骨な拳でキャットウォークの手すりを軋むほど握り締めた。
「現場の海に、連中の都合に合わせた凪など存在せん」
喉の奥で転がしたその低く獰猛な唸りだけで、田中は口を閉ざした。
体重七十キロを超える巨躯の谷崎と、吸気抵抗という爆弾を抱える短頭種の大田原。最も脆い継ぎ目を持つチームを最も過酷な海に叩き込み、どこから破綻するかを暴き出す。
源の剃刀のような眼光が、水際で立ち尽くす大輔の背中を、値踏みするように射抜いていた。
だが――。
水際の大輔の全身を襲っていたのは、過酷な想定への緊張などという生易しいものではなかった。
完全遮光マスクによって視界を完全に奪われた暗黒の中、シュババババッ! と激しいノズル音とともに噴き上がる無数の気泡の音。コンクリートの壁面を揺るがす重低音の反響。そして、マズルを覆うマスクから喉の奥へと流れ込む、無機質で冷たい圧縮空気。
逃げ場のないその「聴覚」と「触覚」が鼓膜と肌を灼いた瞬間。
大輔の脳内で、無理やり押し殺してきた記憶の蓋が、鈍い音を立てて砕け散った。
――暗黒の安芸灘。冷たい泥底へと滑落していった七五〇便の残骸。
――レスキューカップを当てがいながら、濁水の中で体温を失いかけていたパイロットたちの青白い顔。
――そして、首から鮮血を噴き出して崩れ落ちた、神田の巨躯。
救えなかったかもしれない命の重圧。
神田の血の強烈な鉄の匂い。
絶対的な死が支配する「水底の記憶」が、濁流となって一気に大輔の五感を飲み込んだ。
ピキリ、と肉球が鉛のように凍りつく。
足がすくみ、膝が小刻みに震えてリノリウムの床から一ミリも動かない。
「どうした、間! 制限時間は始まっているぞ!」
キャットウォークから源教官の怒号が叩きつけられる。
「ハァッ……ヒューッ……ハァッ……!」
遮光マスクの奥で、大輔の喉から、細く引き攣れた異常な呼気が漏れ出した。
吸っても吸っても、空気が肺に入ってこない。心拍数が暴走し、過呼吸によって血中の二酸化炭素が急激に失われていく。全身の神経が焼き切れるような痺れが走り、足から力が抜け落ちた。
両手の指先がテタニー(過呼吸による硬直)を起こし、まるで鳥の鉤爪のように内側へと硬く折れ曲がって、どれだけ力を込めても開かなくなった。己の肉体が、己の意志を完全に離れてパニックに呑まれていく。
一方、水中の大田原、谷崎、島尾の三頭は、猛烈な下降流の中で異変に気づいていた。
先陣を切って飛び込んだものの、最後尾の大輔が続いてこない。四頭を繋ぐ命綱が水面へ向かってピンと張り詰め、彼らの潜降を物理的に阻んでいたのだ。
(どうした、間さん!?)
完全遮光で状況が掴めないまま、水深三メートルの激流の中で三頭は必死に壁面にすがりつく。ガイドラインを引いても、上の大輔は岩のように動かない。
プールサイドでは、大輔の全身が酸素を求めて激しく痙攣していた。
見守る俊平と明の目が、驚愕に見開かれていた。
(大輔……!? 嘘だろ、過呼吸か……!)
俊平が思わず一歩踏み出して大輔の背中を支えようとするが、
「動くなッ!!」
キャットウォークからの源教官の鋭い制止の怒号が、それを遮った。
「他班の者が手出しすることは許さん! このまま潜降できなければ、第三班は全員失格だ!」
大輔の耳には、教官の怒号も、同期の息を呑む気配も、遠い水底の泡の音のようにしか届かなかった。
酸素を求めて激しく喘ぐ胸。
限界まで張り詰めた意識の糸がプツリと切れ、濡れたプールサイドの床へ、大輔の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちていった。




