第64話 白波の逆巻く棺桶、神田の影
第4部 第64話:白波の逆巻く棺桶、神田の影
「間さん、神田さんとバディだったんですよね」
器材の最終点検を行うプールサイド。完全遮光マスクを額に上げ、レギュレーターの調整をしていた大輔の隣で、パグの大田原がボソリと声をかけてきた。
ずんぐりとした太い首元、短頭種特有のヒューヒューと鳴る荒い鼻息。そのシルエットは、かつて呉の暗い海で大輔の先を泥臭く泳ぎ続けた男の面影を、否応なしに想起させた。
「そうだけど」
「羨ましいです。僕も一度でいいから組みたかったな、神田さんと」
大田原の潰れたマズルの奥から、純粋な憧憬の混じった吐息が漏れる。
同じパグとして、構造的な呼吸器の脆弱さと熱中症のリスクを抱えながら、全国の潜水士の頂点に君臨し続けた神田は、大田原にとって文字通りの生ける伝説だった。
「……組んでみればわかるよ。憧れだけでついていけるような甘い人じゃない」
大輔は乾いた笑みを浮かべた。
「毎日泥水を飲まされて、容赦なく海に叩き落とされた。理不尽で、口が悪くて、死ぬほど怖かった。……でも、どんな地獄の底からでも、絶対にバディの命綱を手放さない人だった」
その言葉の重みに、大田原は真剣な眼差しで、太い喉を鳴らして力強く頷いた。
「第三班、位置につけ!」
田中助教の冷徹な号令が飛ぶ。
大田原慶彦、間大輔、谷崎陽太、そしてゴールデン・レトリーバーの島尾健司。
四頭が水際へ並んだその時――キャットウォークの源統括教官が、獰猛な光を宿して手すりをバンと叩いた。
「おい、田中。スイッチを入れろ。状況を変える」
「……よろしいのですか、教官」
「構わん。回せ」
ゴオオォォォッ……!
重厚な油圧モーターの駆動音とともに、潜水槽の壁面に仕込まれた四基の大型造波ノズルと循環水流発生装置が一斉に牙を剥いた。
水深十五メートル、直径十メートルの垂直水槽。
水面が激しい白泡を噴き上げて逆巻き始める。ただの波ではない。水槽壁面沿いに猛烈な渦電流と下降流が発生し、激浪が巻き込んだ気泡によって水の比重(浮力)が一気に奪い去られる。
荒天下、激流に揉まれる「沈没船の転覆区画」の再現。
プールサイドで見守る俊平と明が、息を呑んで水面を凝視した。
(大輔たちの班だけ、条件を跳ね上げただと……!?)
源教官は腕を組み、剃刀のような眼光を大輔の背中に突き刺していた。
(間大輔――神田の背中を見て育ったそうだな。あいつが命を削って貴様に何を遺したのか、この棺桶の中で証明してみせろ)
突入まで、残り十秒。
大輔は即座に三頭の肩を引き寄せた。
「聞け! 壁沿いに強烈な下降流が巻いてる! 第一班のようにバラければ、大田原が水流に叩き落とされて圧平衡(耳抜き)が間に合わず鼓膜が破れるぞ!」
大輔の鋭い指示が飛ぶ。
「ニューファンドランドの谷崎、ゴールデンの島尾! お前たちの大型犬の体格で壁面のガイドラインを死守しろ! その間に大田原を挟み込んでアンカーを作る! 息を止めるな、深く重い呼吸で二酸化炭素を吐き切れ。下降流を抜けた瞬間の吹き抜け(急浮上)に備えて、常にBCDのダンプバルブ(排気弁)に指を掛けておけ!」
「「「了解ッ!!」」」
「状況――荒天海域における沈没船内救助! 総員、遮光マスク着装! 制限時間十分、開始ッ!」
ピィィッ!
開始のホイッスルが鳴り響いた瞬間。
大輔は額の完全遮光マスクを顔面に下ろし、バックルを固く引き絞った。
――視界が、完全な漆黒に呑み込まれる。
大田原、谷崎、島尾の三頭は、レギュレーターを咥えて白泡逆巻く漆黒の渦の中へと迷わず身を躍らせた。
しぶきが上がり、三つの影が冷たい水底へと引きずり込まれていく。
だが。
最後尾で飛び込もうと床を蹴りかけた大輔の身体が、水際でピクリと硬直した。
視覚を奪われたことで異常に研ぎ澄まされた聴覚と肌に、シュババババッ! という暴力的なノズル音と、冷たい飛沫が容赦なく叩きつけられる。
その瞬間、大輔の視界の裏側に、あるはずのない幻影がフラッシュバックした。
プールの底へ沈んでいく、あの小さなトイプードルの教え子の手。安芸灘の炎の向こうへ消えかけた神田の血まみれの背中。
視界ゼロの暗闇と、逃げ場のない水の暴力が、大輔の脳髄の奥で堅く封じ込めていた「死の海」の記憶の蓋を、強引にこじ開けてしまったのだ。
大輔の呼吸が浅く痙攣し、プールサイドのリノリウムの床に、両脚がコンクリートで縫い付けられたように一ミリも動かなくなった。
(……え?)
大輔の身体が、ガタガタと震え始める。
暗黒の棺桶の中で、三頭のバディが、来ないはずの最後尾の命綱を待って水底へ落ちていく。




