第61話 漆黒の潜水槽、底知れぬ影
第4部 第61話:漆黒の潜水槽、底知れぬ影
訓練初日、〇六〇〇。
羽田特殊救難基地のグラウンドに吹き抜ける朝の風は、東京湾の潮気と夜の名残を含んで冷たかった。
張り詰めた空気の中、朝の点呼を終えた源統括教官が、整列した候補生たちの前をゆっくりと歩く。編上靴の硬い足音がアスファルトに響く中、その歩みがピタリと止まった。
視線の先にいたのは、第七管区・門司から来たパグの大田原慶彦だった。
神田を思わせる分厚い首回りと、寸胴で頑強な体躯。源教官は傷だらけの顔をわずかに傾け、低く濁った声で問いかけた。
「……お前、神田を知っているか」
大田原は背筋をさらに伸ばし、直立不動のまま腹の底から返答した。
「はいッ! パグの潜水士にとって、生ける伝説のお方です!」
門司の第七管区はおろか、全国の潜水士の間で「神田」の名を知らぬ者はいなかった。幾度もの沈没船から生還し、シージャックでは首を撃たれながらも現場を死守した歴戦のダイバー。短頭種の解剖学的限界を超えて荒海をねじ伏せてきた、希望の象徴だ。
だが、源教官の双眸は剃刀のように冷徹だった。
「よろしい。ならばあいつになろうとするな。神田の真似事をして死んだ短頭種を、俺は何頭も見てきた。貴様は貴様自身の骨と筋肉で、生きて命を拾い上げろ」
「フゴッ……了解ッ!」
短頭種特有の荒い鼻息とともに、大田原は力強く太い首を引いた。
そのやり取りを三列後ろから見つめていた大輔の胸の奥で、神田が『ながら』を降りる際に見せた最後の敬礼が、熱く蘇っていた。
*
〇八三〇。
源統括教官と、補佐を務める田中助教――冷徹な眼光を持つドーベルマンに率いられ、十二名が足を踏み入れたのは、基地の最深部に位置する巨大な屋内潜水訓練棟だった。
見上げるほどの鉄骨構造の中央に、直径十メートル、水深十五メートルに及ぶ巨大潜水槽が口を開けていた。
だが、通常のプールとは決定的に異なる異様な気配。
水面は黒く濁り、底など微塵も見えない。分厚い遮光シャッターが外光を完全に遮断し、人工的に漆黒の海底を再現した巨大な水の棺桶だった。
「貴様らには最初に、暗黒潜水捜索訓練をやってもらう」
源教官が手すりを叩いた。金属音が重く反響する。
「水深十五メートルの底に、六十キロの沈降ダミーを沈めてある。視界ゼロの暗黒の中で、四名一組の環状捜索を展開し、ダミーを発見・拘束して水面まで生還させろ。制限時間は十分。水中には安全管理員を配している。パニックを起こした者、浮上速度違反を犯した者は、その瞬間に失格だ」
水深十五メートル。水圧はおよそ二・五気圧。
完全な暗闇の中で平衡感覚を奪われ、手探りで冷たい水底を這い回りながら、大人の体重に匹敵する六十キロの沈降物を、中性浮力を維持して引き揚げなければならない。一歩間違えれば、パニックによるエア切れや、急浮上による肺破裂が待っている。
「班構成を発表する。呼ばれた班ごとに装具を着装しろ」
田中助教がクリップボードを掲げ、冷酷に班分けを読み上げた。
第一班
桧垣明、神崎俊平、安藤アサギ、神尾洸平
第二班
黒田鉄平、佐藤亮太、宮武修二、島尾健司
第三班
大田原慶彦、間大輔、谷崎陽太、田宮裕太
「第一班、位置につけ!」
源教官の号令が飛ぶ。
明、俊平、安藤、神尾の四名が、十四リットルのダブルシリンダーを背負い、漆黒の水面へと歩み出た。
俊平は大輔の横を通り過ぎる際、一瞬だけ視線を交錯させた。
(大輔、見ていろ)
言葉はなくとも、その研ぎ澄まされた双眸が語っていた。その後ろでは、明が防衛隊EOD仕込みの余裕の笑みを浮かべて、肩のシリンダーバンドを鳴らしている。
「開始ッ!」
ドバシャァァンッ!
四つの影が、光の届かない黒い深淵へと身を投げ出した。
羽田特救隊の、本当の地獄が幕を開けた。




