第60話 羽田の洗礼、十二名の名乗り
第4部 第60話:羽田の洗礼、十二名の名乗り
東京湾の潮風と、羽田空港A滑走路から吹き付けるジェットエンジンの轟音が、重く窓を震わせていた。
第三管区沿岸警備本部・羽田特殊救難基地。
無機質なコンクリート造りの講堂には、選考試験の泥と汗を洗い流し、真新しい濃紺の官給訓練服に身を包んだ十二名の候補生たちが、直立不動で整列していた。
正面の壇上には、特殊救難隊の識別章であるブルーとオレンジのワッペンを胸に刻んだ三名の教官陣が、仁王立ちで腕を組んでいる。
中央に進み出たのは、選考試験でも冷徹な指揮を執ったロットワイラーの主任教官――源統括教官だった。首元に深く刻まれた救難現場の古傷と、感情を削ぎ落とした双眸が、十二名を舐めるように見据える。
「本日より、貴様らを羽田特殊救難基地の訓練生として扱う。だが、浮かれた面をしている奴がいれば今すぐ荷物をまとめて原隊へ帰れ。ここは各管区で『エース』とおだてられてきた甘ったれが、己の無力さを骨の髄まで思い知るための場所だ」
源のドスの利いた重低音が、床下を揺さぶるように響く。
「まずは初日だ。互いの面と名前を網膜に焼き付けろ。右端から順に、所属、氏名、そして『なぜここにいるのか』を一言で申告しろ。――始め!」
「はいッ!」
号令一番、最右翼に立ったビーグルが、腹の底から鋭く通る声を張り上げた。
「第六管区・巡視船『くろせ』潜水士、桧垣明! ビーグル! 元・海上防衛隊EODの技術のすべてを、人命救助の最前線に捧げるために来ました!」
一分の隙もない姿勢。軍の爆発物処理で培われた度胸と爆発力を秘めた男の言葉に、教官陣の目が微かに光る。
「第二管区・塩釜沿岸警備部、黒田鉄平! 黒ラブラドール! いかなる極寒、いかなる逆潮であっても、要救助者の元へ真っ先に到達してみせます!」
完全静止懸垂で圧倒的な膂力を見せつけた巨躯の黒田が、鋼のような背筋を伸ばして吠える。
「第一管区・小樽沿岸警備部、佐藤亮太! ラブラドール! 呉の潜水研修で培った命綱の重みを、この羽田で本物の盾にするために来ました!」
佐藤の引き締まった申告に、大輔と俊平の耳がピクリと跳ねた。呉の地獄を共に生き残り、北の海へ散っていった同期の男。その瞳には、かつて以上の重厚な覚悟が宿っていた。
「第三管区・巡視船『とねかぜ』潜水士、神崎俊平! ビーグル! 日本で最も過酷な海難を制するため、ここに来ました。誰にも背中は譲りません!」
俊平の研ぎ澄まされた宣戦布告。その隣で、大輔が肺腑の底から息を吸い込む。
「第六管区・巡視船『ながら』潜水士、間大輔! ビーグル! どんな極限の底からでも、絶対に命の手を離さない潜水士になるために来ました!」
来島海峡の濁流、あきつ丸の硝煙、そして沈みゆく大型旅客機の暗黒。幾多の命の重みを背負ってきた大輔の声が、力強く講堂を震わせた。
名乗りは淀みなく続いた。
「第七管区・門司沿岸警備部、大田原慶彦! パグ! 泥臭く、最後まで諦めない救助を貫きます!」
神田を彷彿とさせる屈強な首回りと不屈の闘志を宿した大田原が、太い首を張って叫ぶ。
「第八管区・舞鶴沿岸警備部、谷崎陽太! ニューファンドランド! 荒れ狂う日本海の波をねじ伏せてきました。このパワーを羽田の防波堤にします!」
「第十一管区・那覇沿岸警備部、島尾健司! ゴールデン・レトリーバー! 南西諸島の荒海を越えてきました。俊敏性と状況判断で、誰よりも早く活路を切り拓きます!」
「第二管区・宮古沿岸警備部、安藤アサギ! ニューファンドランド! 三陸の冷たい海で命を拾い上げてきました。特救隊の基準を女だからと妥協する気はありません!」
十二名の中で唯一の女性隊員でありながら、大柄な体躯と冷静な眼差しを持つ安藤が毅然と言い放つ。
「第五管区・神戸沿岸警備部、神尾洸平! フレンチブルドッグ! 狭小空間への進入、小回りの利く救助なら誰にも負けません!」
「第四管区・名古屋沿岸警備部、田宮裕太! ラブラドール! 伊勢湾の過酷な海難で鍛えたスタミナを、限界まで出し切ります!」
「第六管区・高松沿岸警備部、宮武修二! ボーダーコリー! 瀬戸内と呉で学んだ連携で、チームの命綱となります!」
十二名の申告が終わり、再び静寂が講堂を支配した。
北のオホーツクから南西諸島まで、各管区の荒波を背負ってきた猛者たち。犬種も、体躯も、性別も異なるが、放たれる熱量は完全に一致していた。
源統括教官は腕を組み直すと、薄く牙を覗かせた。
「威勢だけは一人前だな。だが、その言葉がただの遠吠えかどうかは、明日からの海が証明する。……今日はここまでだ。各自、器材庫の指定区画へ装備を搬入し、明朝〇六〇〇、グラウンドへ戦闘服装で集合しろ。一秒の遅参も許さん。以上!」
「「「了解ッ!!」」」
十二名の咆哮が、講堂の窓ガラスを激しく震わせた。
解散の号令とともに、互いの顔を見交わす候補生たち。
大輔、俊平、明、そして佐藤。
全国の海から集結した精鋭たちの間に、オレンジ色の救難服を掴み取るための、熾烈で誇り高き火花が散っていた。




