第59話 選ばれし十二の刃
第4部 第59話:選ばれし十二の刃
雨が上がり、夕暮れの赤黒い落日が横浜港の埠頭を血のように染め抜いていた。
第三管区・横浜沿岸防災基地、大講堂。
汗と泥を洗い流し、身を切るような静寂の中で作業服を正した受験者たちが、微動だにせず整列していた。当初四十名を超えた猛者たちも、過酷を極めた体力選考の嵐を経て、残された数は半分以下にまで削ぎ落とされていた。
壇上に立ったロットワイラーの主任教官が、無骨な掌で一枚の白紙を広げた。
その双眸には、一切の情も飾りもない。極限の海へ送り込むに足る「命の器」を見極めた者だけを、冷徹に呼び上げる点呼。
「これより、羽田特殊救難基地・特殊救難隊員選考試験、第一次合格者を発表する。呼ばれた者は前へ出ろ」
ピンと張り詰めた空気。衣服越しに心臓の鼓動が講堂の床を震わせるようだった。
「――黒田鉄平!」
「はいッ!」
第二管区・塩釜の黒ラブラドール、黒田が力強く一歩を踏み出した。あの完全静止懸垂で圧倒的な膂力を見せつけた巨躯が、鋭く目を光らせて並ぶ。
「桧垣明!」
「はいッ!」
元・海上防衛隊EOD、そして第六管区『くろせ』の明が続く。重爆スーツで鍛え上げた爆発力を隠し持つビーグルが、不敵に犬歯を見せて進み出る。
「神崎俊平!」
「はいッ!」
横浜『とねかぜ』の俊平が、床を叩くような足取りで進み出る。東京湾の過密航路を制してきた誇りが、その引き締まった背筋に宿っていた。
「――間大輔!」
「はいッ!」
大輔は腹の底から声を張り上げ、迷わず前へ出た。
来島海峡の濁流、あきつ丸の硝煙、墜落機の暗黒。幾多の修羅場を越えてきた四肢が、リノリウムの床を力強く踏みしめる。
教官の読み上げは、容赦なく続いた。
「佐藤亮太!」
第一管区・小樽から志願した、呉の潜水研修同期のラブラドール・佐藤。
「大田原慶彦!」
神田を彷彿とさせる、分厚い首回りと不屈の闘志を宿したパグの大田原。
「谷崎陽太!」
荒波をものともしない圧倒的な体躯と肺活量を誇るニューファンドランドの谷崎。
「島尾健司!」
並み居る巨漢を持久走で置き去りにした、俊敏なゴールデン・レトリーバーの島尾。
「安藤アサギ!」
冷徹な水泳技術と怪力を併せ持ち、荒海をねじ伏せたニューファンドランドの女性潜水士、安藤。
「神尾洸平!」
小柄ながら驚異的な瞬発力と粘りで難関を突破したフレンチブルドッグの神尾。
「田宮裕太!」
安定した技術と無尽蔵のスタミナで基準をクリアしたラブラドールの田宮。
「宮武修二!」
呉の潜水研修を共に生き残り、柔軟な機動力を発揮した第二管区のボーダーコリー、宮武。
「――以上、十二名!」
教官が書類をバサリと閉じ、壇上から整列した十二名の精鋭たちを見下ろした。
犬種も、所属管区も、性別すらも異なる。だが、その瞳の奥底に宿るものは寸分の狂いもなく同じだった。荒れ狂う海から、絶対に命の手を離さないという剥き出しの執念。
「貴様ら十二名を、特殊救難隊『候補生』として認定する。だが、勘違いするな」
教官の鋭い牙が、獰猛に覗いた。
「ここはゴールではない。地獄の門の前に立ったに過ぎん。貴様らは来月より羽田特殊救難基地へ召集され、六か月に及ぶ過酷な『羽田特別訓練』に叩き込まれる。ヘリからの洋上降下、有毒ガス・危険物火災船突入、密閉区画脱出――そのすべてをクリアし、教官陣全員の信任を得た者だけが、オレンジ色の救難服にトッキューの識別章を刻むことを許される。……それまでに躰を壊した者は、即座に元のフネへ送還だ。気を引き締めて出頭せよ。以上!」
「「「了解ッ!!」」」
十二名の咆哮が、講堂の窓ガラスを激しく震わせた。
解散後。夕闇に包まれたグラウンドの脇。
大輔、俊平、そして明の三頭のビーグルが、無言で向き合っていた。
かつて舞鶴の沿岸警備学校や呉の潜水研修で泥水を啜り、瀬戸内と東京湾の海へと散っていった小型猟犬たち。
「……生き残ったな、お前ら」
明が琥珀色の双眸を細め、ニヤリと笑った。
「黒田たち大型犬の化け物揃いだが、チビにはチビの戦い方があるって証明してやったぜ」
「ああ。だが、羽田の本番は体力だけじゃ乗り切れない。トッキューの求める救助技術と精神力は、文字通り常軌を逸している」
俊平が拳を握り、口元を吊り上げた。
「誰が一番先に、あのオレンジ色の服を勝ち取るか――羽田で白黒つけようぜ」
大輔は二頭の顔を見据え、力強く頷いた。
神田が辿り着けなかった場所。老兵「ながら」に残してきた仲間たちへの誓い。
背負うものの重さが、いま大輔の四肢に新たな力を漲らせていた。
日本海難救助の最高峰――羽田特殊救難基地の扉が、いま彼ら三頭の猟犬の目の前で、音を立てて開かれようとしていた。




