第58話 泥濘の蹄跡、限界の果てのゴールライン
第4部 第58話:泥濘の蹄跡、限界の果てのゴールライン
体育館を出た受験者たちを待ち受けていたのは、鉛色の空から降り注ぐ冷たい雨と、基地の敷地を取り囲む特設周回コースだった。
「最終種目、三キロメートル走! 救助用ヘビーベスト着用、靴は官給編上靴だ!」
ずぶ濡れのロットワイラー主任教官が、ストップウォッチを掲げて怒号を浴びせる。
「制限時間十二分! 競争基準は十分三十秒以内! 路面は濡れている、水溜まりも障害物とみなせ! 足を止めた奴、制限時間をオーバーした奴はその場で失格、即刻荷物をまとめて原隊へ帰れ!」
白波水泳、限界腕立て伏せ、超速の上体起こし、そして広背筋を焼き切る完全静止懸垂。
すでに全身の筋繊維はズタズタに裂け、乳酸が血液の代わりに体内を巡っているような極限状態だった。そこに追い討ちをかけるのが、胸郭を締め上げる約十キロの濡れた救助用ベストと、硬く重いゴム底の編上靴だ。着地のたびに、膝蓋腱と足首へ強烈な破壊的衝撃が突き刺さる。
「位置につけ……用意――ッ!」
パァァァンッ!
空砲の轟音とともに、受験者たちが一斉に冷たい雨煙の中へ雪崩れ込んだ。
先頭を引っ張るのは、超速の上体起こしを見せたラブラドール・レトリーバーの高山、そして懸垂で異次元の膂力を見せつけた黒ラブラドールの黒田だ。北の海で鍛え上げられた長身の二頭の大型水猟犬が、泥水を力強く蹴り飛ばし、猛烈なペースで後続を引き離していく。
だが、周回を重ねるにつれ、コースは生き地獄と化した。
体重八十キロを超える巨躯のニューファンドランドや大型シェパードたちが、ベストの加重と自重の二重苦に脚をすくわれ、一名、また一名と失速していく。総重量が百キロ近くに達する巨漢にとって、アスファルトの衝撃は関節を内側から砕く拷問に等しい。
「う、ぐあぁぁっ……!」
足の腱を痛めた一名が泥水の中に前のめりに崩れ落ち、コース脇の教官から容赦なく脱落を告げられた。酸欠で喉をヒューヒューと鳴らし、胃液を吐きながら歩道に倒れ伏す猛者たち。全国の精鋭と恐れられた顔ぶれが、情け容赦のない選考の篩にかけられて削ぎ落とされていく。
その過酷な泥濘の中を、三つの影が泥を跳ね上げながら泥臭く食らいついていた。
「ハァッ……ハァッ……大輔、前を、見ろ……!」
俊平が牙を剥き出しにし、飛び散る雨水を舌先で払いながら低く呻いた。
体格で劣る中型猟犬の足首に、濡れた編上靴は鉄枷となって食い込んでいる。自分の体重の半分に相当する十キロの重りは、大型犬以上に彼らの肺を圧迫していた。だが、引き締まった体躯と深い胸郭は、加重走において驚異的なピッチ走法を生み出していた。
「へへっ……置いてかれるなよ、エリートども……!」
俊平の横から、血の混じった唾を吐き出しながら並びかけてきたのは、元防衛隊EODの明だった。重爆処理スーツを着て陸上を走らされてきた明の太ももは、編上靴の重さをものともせずアスファルトを力強く叩いている。
「お前らこそ……! ここで落ちたら……ただの負け犬だぞッ!」
「分かって……ますッ!」
大輔は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、呼吸を乱すまいと肺腑の底から細く息を吐き出した。
肺が焼けるように熱い。濡れた作業服が鉛のように身体へ張り付き、大腿四頭筋が激しい痙攣の予兆を訴えている。
だが、視界のすぐ横を走る俊平と明の姿が、決して前を譲らなかった。
毛並みは泥と雨水にまみれ、整った横顔は激痛と闘志で鬼気迫るものに歪んでいる。
(大輔……お前なんかに、ここで背中を晒せるかよ……!)
俊平の脚が、千切れそうな痛みをねじ伏せてアスファルトを叩きつける。
横浜の時化で揉まれ、孤独に耐えてきた誇り。その意地が、鈍く重い靴を前へ前へと力づくで振り出させていた。
大輔もまた、その横顔から視線を逸らさなかった。
――来島海峡の湧潮。
――沈みゆく旅客機の暗黒。
――そして、「命から手を離すな」と背中を押してくれた神田の黒い瞳。
ここで脚を止めたら、あの海で救えなかった命に、そして背中を預けてくれた仲間たちに顔向けができない。
「うおおおおぉぉぉッ!!」
ラスト二百メートル。
前方をひた走る高山と黒田の背中を視界に捉えながら、三頭のビーグルは喉の奥から一斉に咆哮を絞り出した。
もはやフォームも何もない。泥水を蹴散らし、全身の骨を軋ませながら、三頭は塊となってラストスパートの直線へ突っ込んだ。
ピピピピィィッ!
けたたましいホイッスルが雨雲を切り裂く。
「高山、九分五十八秒! 黒田、十分ジャスト!」
「神崎俊平、十分十二秒! 桧垣明、十分十四秒! 間大輔、十分十五秒――全員、競争基準クリアッ!」
十キロの重りと編上靴という悪条件において、専門家が見れば戦慄するしかない化け物じみたタイム。ゴールラインを越えた瞬間、大輔たちは勢い余って濡れたアスファルトの上へ滑り込むように崩れ落ちた。
胸が激しく波打ち、視界がチカチカと明滅する。泥と雨と血の混じった鉄の味が、口いっぱいに広がっていた。
隣に仰向けに倒れ込んだ俊平が、雨に打たれながら荒い息の隙間にフッと短く笑った。
「……しぶといな、大輔、明」
「……お前らこそな」
降りしきる冷たい雨の中、受験者四十数名のうち、すでに半分以上が脱落して静まり返るグラウンド。
前方に立つ高山と黒田が、肩で息をしながら、泥まみれで倒れ伏す三頭のビーグルを静かに見下ろしていた。
ロットワイラー主任教官がバインダーを叩き、冷酷に告げる。
「第一次体力選考、終了。生き残った十八名は、三十分後に第二訓練プールへ集合せよ。……ここからが、本当の『特救隊』の選考だ」
泥まみれの三頭の猟犬は、痛む身体を軋ませて起き上がりながら、羽田特救隊への真の地獄へ向けて、鋭利な闘志を研ぎ澄ませていた。




