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海嶺のハウンド  作者: 水前寺鯉太郎
第4部

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第57話 軋む鉄棒、漆黒の膂力

第4部 第57話:軋む鉄棒、漆黒の膂力

 体育館の奥に設置された、四連の懸垂バー。

 無機質な銀色の鉄パイプには、受験者たちの汗と炭酸マグネシウムの白い粉が幾重にもこびりつき、異様な威圧感を放っていた。

「第四種目、懸垂!」

 ロットワイラー主任教官の乾いた宣告が響く。

「時間制限はなし。基準は完全静止で十回、競争基準は十四回以上とする。反動によるキッピング(あおり)は一切無効。マズルがバーを完全に越え、下ろす時は肘がロックするまで腕を伸ばし切って、初めて一回とみなす。バーから両手が離れた時点で終了だ」

 時間制限がない――それは一見、猶予があるように思える。

 だが、現実は真逆だった。

 五百メートルの白波水泳、限界を超えた二分間の腕立て伏せ、そして高山が異次元の嵐を巻き起こした上体起こし。

 受験者たちの上腕二頭筋、広背筋、前腕の屈筋群は、すでに悲鳴を通り越して麻痺し始めていた。バーにぶら下がっている間、己の体重が毛細血管を圧迫し、血流を止めて筋繊維を内側から焼き尽くしていく。

「ぐ……っ、あ……!」

 バーに飛びついた特殊警備隊(SST)上がりのシェパードが、五回目を数えたところでピタリと止まった。

 マズルを上げようと首を必死に伸ばすが、痙攣する広背筋が言うことを聞かない。体を揺らして反動を使おうとした瞬間、「反動無効!」と教官の容赦ない怒号が飛び、力尽きてドサリとマットへ落ちた。

 巨躯を誇るニューファンドランドたちも、重すぎる自重が仇となり、十回の合格ラインに届かず次々とマットに沈んでいく。

「次、位置につけ!」

 大輔と俊平、そして明の三頭のビーグルが並んで、バーの下へ進み出た。

 大輔は白い炭酸マグネシウムを掌の肉球に擦り込みながら、冷たい鉄棒を見上げた。腕を真上に伸ばすだけで、二の腕の筋繊維がズキズキと熱い痛みを訴えてくる。

「跳べッ!」

 三頭同時に跳躍し、冷たい鉄棒を掌で鷲掴みにした。

 ずしり、と全体重がぶら下がる。

 ――重い。

 水の中なら浮力がある。だが、この大気の中では、己の肉体と作業服の重みが、容赦なく指の皮を剥ぎにかかる。

「一……二……三……」

 俊平が鋭い呼気を吐き出しながら、東京湾の荒波で研ぎ澄ました背筋の力で、バーをマズルの下へと引き寄せた。隣では明が、EOD仕込みの爆発力でグイグイと身体を持ち上げている。

 大輔も二頭に食らいつく。肩甲骨を寄せて胸を張り、腕力ではなく広背筋の収縮で身体を浮き上がらせる。

 だが、八回を過ぎたあたりで、前腕の筋肉が火を噴いた。握力が急速に失われ、指先が一本、また一本と鉄棒から剥がれそうになる。

(あきつ丸の舵機室……首を撃たれながらも、血まみれの掌で重いバルブを回し切った神田先輩の執念に比べれば、こんな重さ……!)

 ――離すな。絶対に、命から手を離すな。

 脳髄の奥底で、あの去っていったパグの怒号が爆発した。

 大輔は喉の奥で獣のような咆哮を噛み殺し、背筋の繊維を引きちぎる勢いで、マズルをバーの上へねじり上げた。

「十二……十三……十四ッ!」

 俊平が十五回、明が十六回、そして大輔が十四回――競争基準の壁をギリギリで越えた瞬間、両手の握力が完全に焼き切れ、三頭のビーグルは崩れるようにマットへ膝をついた。

 肩で息を荒らげ、激しく痙攣する腕を擦る。全身の筋肉が鉛のように重く、視界の端がチカチカと明滅していた。

 そんな極限の疲弊を切り裂くように、一頭の大柄な男が、静かにバーの下へ歩み出た。

 ――第二管区・塩釜沿岸警備部の黒田。

 漆黒の毛並みを持つ、ラブラドール・レトリーバーの潜水士だった。呉の研修で大輔たちと同期だった宮武(ボーダーコリー)が常にその背中を追っているという、塩釜潜水班の絶対的エース。三陸のリアス式海岸、荒れ狂う親潮の激流で幾多の転覆船救助をこなしてきた東北の雄だ。

 黒田は無言のまま、跳躍一番、バーを太い掌で握り込んだ。

「始め!」

 周囲の苦戦が嘘のように、黒田の巨躯が音もなく上昇した。

 あおりは一切ない。水面に浮かぶブイのように完全な静止を保ったまま、分厚い肩甲骨が鋼の板のように連動し、マズルが悠然とバーを越えていく。

「一、二、三……」

 見守る受験者たちが息を呑む。黒田のリズムは、十回を越えても一ミリも揺らがない。

 十四回の競争基準も、涼しい顔で通過。

 十六、十七、十八――黒い作業服の下で、大円筋と広背筋が血管を浮き上がらせて蠢く。

 十九。

 そして最後の一回、黒田はバーを鎖骨まで引きつけ、首筋の筋肉を怒張させてマズルを押し通した。

「二十ッ!」

 教官のカウントと同時に、黒田は軽やかにマットへ着地した。

 荒い息一つ乱さず、漆黒のラブラドールは静かに胸を張る。

 二十回。

 誰もが腕を焼き切らし、十数回でマットに沈んだこの極限のステージで叩き出された、圧倒的な肉体と現場の記憶の証明。

 マットの上で膝をつく大輔と俊平、そして明の眼前に、羽田の頂を目指す全国の猛者たちの、底知れない実力が冷徹に突きつけられていた。

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