第56話 極北の氷刃、超速の腹筋
第4部 第56話:極北の氷刃、超速の腹筋
「休むな、続けろ! 第三種目、上体起こし!」
容赦のない号令が、汗と熱気が充満する体育館に響き渡った。
腕立て伏せを終えたばかりの受験者たちの両腕はすでに痙攣し、心拍数はレッドゾーンに張り付いたままだ。
「制限時間二分間! 基準五十回、競争基準八十回以上! 両手を後頭部で組み、背中を完全に床につけた状態から、両肘が膝頭を確実に越えるまで起こせ! 反動で尻を浮かす、あるいは肘が届かなければカウントせん!」
計算上、一秒に一回こなせば百二十回に届く。
だが、現実は残酷だ。直前のヘッドアップ水泳と限界腕立て伏せで、全身の筋グリコーゲンは枯渇しかけている。腹直筋を急激に収縮させ続ければ、激しい筋痙攣と乳酸の激痛が即座に襲いかかる。
受験者たちが二人一組となり、一方が足首を強く固定する形で組分けが進む中、ひときわ異様な威圧感を纏って前方へ進み出た男がいた。
――第三管区・救難強化型巡視船『ぶこう』主任操舵手、高山。
舞鶴の沿岸警備学校で大輔や俊平と泥水を啜り、卒業後は第一管区・小樽の極寒の海で流氷と密漁船を相手に修羅場を踏んできたラブラドール・レトリーバーだった。北の海で鍛え抜かれた、研ぎ澄まされた氷刃のような青い双眸が、リノリウムの床を射抜いている。
「おい、見ろ……第三管区に抜擢された北のラブラドールだ」
「小樽の激浪で、一人も落水者を出さずに冬を越したって奴だぞ……」
全国から集まった猛者たちの間に、ざわめきが走る。
「位置につけ!」
パートナーの大型犬が、高山の足首に全体重をかけて押さえ込んだ。
高山は静かに仰向けになり、後頭部で太い指を組む。その呼吸は、極限選考の渦中とは思えないほど深く、氷湖の底のように静まり返っていた。
「始めッ!!」
ピーッと笛の音が鳴り響いた瞬間――体育館の空気が凍りついた。
シュババババッ!
肉眼の追従を拒絶するような、常軌を逸した高速の残像。
一秒に一回どころではない。
高山の引き締まった体幹が、強靭なスチールスプリングのように、異常な速度で床と膝の間を往復し始めた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ! と作業服の布地が擦れる甲高い摩擦音が、機関銃の連射のようにリノリウムを叩く。
「……な、何だあいつは!?」
足首を押さえるパートナーの体が、高山の生み出す爆発的な推進力で浮き上がりそうになり、慌てて爪を立てて押さえ直す。
凍てつく流氷の海で荒れ狂う鋼鉄の舵輪を、巨大な体幹だけでねじ伏せてきた大型水猟犬の骨格。無駄な力みは一切ない。腸腰筋の爆発的な収縮と背骨のしなりだけで、床を叩いては跳ね起きる。
「十、二十、三十――!」
教官のカウントが、舌が追いつかないほどの猛スピードで刻まれていく。開始三十秒で、すでに合格基準の五十回を遥かに置き去りにした。
一分経過――九十回。競争基準の八十回を、瞬く間に粉砕する。
普通なら乳酸で腹筋が焼け付き、動きが鈍る時間帯に入っても、高山の氷色の瞳に揺らぎはなかった。ただマズルの端から鋭く呼気を弾き飛ばし、残像と化した上半身で空気を切り裂き続ける。
「百……百十……百二十……!」
ピィィッ!
「そこまでッ!!」
終了のホイッスルが鳴り響いた瞬間、体育館中が静まり返った。
教官がストップウォッチを見つめ、驚愕に喉を震わせながら、その数字を読み上げる。
「高山――百三十八回!!」
会場に重い戦慄が走った。
一回あたりコンマ八秒台。二分間の上体起こしにおいて、限界値を完全に超越した異次元のレコード。
高山は乱れた息をわずか数回の深い呼気で整え、涼しい顔でスッと立ち上がった。
その青い双眸が、フロアの隅で待機していた大輔と俊平、そして明を、静かに見据える。
「……相変わらず、無茶苦茶な体幹してやがるな」
俊平が口元を吊り上げ、低く呟いた。
「ああ。舞鶴の遠泳の時から、あいつの背骨は鉄骨が入ってるんじゃないかって言われてたからな」
大輔は両手の拳を強く握り込み、青い炎を瞳に宿した。
同期の怪物が、圧倒的な壁となって立ちはだかっている。
だが、恐怖はない。むしろ、これほどの男たちと同じ海を目指せる歓喜が、大輔の胸の奥で熱く滾っていた。




